堅糟村(読み)かたかすむら

日本歴史地名大系 「堅糟村」の解説

堅糟村
かたかすむら

[現在地名]博多区吉塚よしづか一―四丁目・同七―八丁目・吉塚本町よしづかほんまちゆたか一―二丁目・東光とうこう一―二丁目・東比恵ひがしひえ二丁目・千代ちよ三―六丁目・東公園ひがしこうえん榎田えのきだ一―二丁目・堅粕かたかす、東区東浜ひがしはま一―二丁目・馬出まいだし二―三丁目

那珂なか郡に所属。東堅粕ひがしかたかす村ともいった(田圃志)。博多の北東方、御笠みかさ川下流右岸に位置する。北は馬出村、東は席田むしろだ下臼井しもうすい村。糟屋かすや箱崎はこざき(現東区)に向かう唐津街道が通る。鎌倉時代後期と推定される筥崎宮造営材木目録(石清水文書/筥崎宮史料)に「神領堅糟東崎」とみえ、本領主は筥崎宮権大宮司安倍義重で、当地となか村の二ヵ所は修理料所として同宮南宝蔵の造営費用を負担し、南宝蔵は弘安五年(一二八二)一月に棟上げしている。正慶二年(一三三三)三月一三日菊池寂阿(武時)は倒幕の兵を挙げ、博多中に火をかけ焼払い、少弐貞経らに蜂起を呼びかける使者を派遣したが、貞経は当地で使者の首を切り、鎮西探題北条英時に差出した(博多日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報