堺奉行所跡(読み)さかいぶぎようしよあと

日本歴史地名大系 「堺奉行所跡」の解説

堺奉行所跡
さかいぶぎようしよあと

[現在地名]堺市車之町東二―三丁・櫛屋町東二―三丁

府立泉陽せんよう高校・市立殿馬場とのばば中学校の西で、元和(一六一五―二四)の町割以降、幕末まで堺奉行所が置かれた。

元禄二年(一六八九)堺大絵図によると西は北糸屋きたいとや町、東は北絹屋きたきぬや町、北は中魚屋なかうおや町・弓場ゆんば町、南は蔵屋敷くらやしき町・骨屋ほねや町・中島なかじま町に接し、南北はほぼ車之くるまの町の筋と櫛屋くしや町の筋の二町分を占め、東西は大道の東三筋目から六筋目に及んだ。奉行屋敷は幅七間の殿馬場に東面し、敷地規模は東表七三間半・西側八五間・南側六〇間五尺五寸・北側五三間五尺五寸で、北東隅の南北一一間三尺二寸・東西七間が鬼門除地とされたが、元禄二年当時この地は「丑寅角屋敷」と記されて町屋になり、天神東片原てんじんひがしかたはら町の飛地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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