精選版 日本国語大辞典 「堺」の意味・読み・例文・類語
さかい さかひ【堺】
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堺津を核に平安後期以降形成された港町。
平安後期、すでに堺は市場・港湾の役割を果す場所として発展しつつあったと思われるが、明確に港湾としての発達を示す史料は「経光卿記」貞永元年(一二三二)五月分の紙背文書である日吉社聖真子神人兼燈炉供御人并殿下御細工等解(後欠で年月日不詳)である。これによれば仁安三年(一一六八)頃、河内国丹南鋳物師集団の有力者広階忠光が鋳物師惣官職に補任されて以後、その職は広階家で相伝されていたが、建保三年(一二一五)頃から阿入が蔵人所に取入って惣官職をかすめ取ろうとし、さらには丹南鋳物師が諸国に赴き、廻船によって泉州堺に運込んでいた荷を無法にも差押えるなどして活動を妨害することがあったという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府中部の市。北は大阪市に接する。2005年2月旧堺市が東に接する美原(みはら)町を編入して成立した。06年4月政令指定都市に移行し,堺,中,東,西,南,北,美原の7区が置かれた。人口84万1966(2010)。
堺市の大部分を占める旧市。1889年市制。人口79万2018(2000)。西は大阪湾に臨み,和泉海岸平野に市街が展開する。市街の東部は低中位の洪積台地にあたり,仁徳陵をはじめ大小約60の古墳が集中する。堺が繁栄し始めたのは,南北朝時代に南朝方の西国への拠点となってからである。応仁の乱以後,海外への窓口となり,その富を背景にして自治都市に発展したが,16世紀末豊臣秀吉の命によって商人が大坂へ移されたため,堺の繁栄は大坂へ移ることになった。江戸時代末までの堺の町は環濠(土居川)の内部に限られ,これが都市の核(現在の旧市街地)に相当する。旧市街には,《延喜式》に載る古社で住吉神社の別宮となった開口(あぐち)神社や,明治初年から同14年まで堺県庁がおかれていた本願寺堺別院がある。1900年に南海高野線が,さらに30年に阪和線が開通するに及んで旧市街の東部に都市化が始まった。第2次大戦後には市営・府営,公団の住宅団地が建設されて市街地は東部,南部へ拡大し,64年からは市域南東部の泉北丘陵に泉北ニュータウンが建設された。官公庁の多くは環濠内から南海高野線堺東駅周辺に移動し,百貨店や商店も同駅前に進出したため,市の中心が旧市街から東へ移ることになった。阪和自動車道に三つのインターチェンジがある。
産業には,中世以来の伝統産業である刃物業のほか,明治に入って鉄砲鍛冶からの転業によって始まった自転車産業がある。堺緞通として知られる敷物業や,市内石津川流域に展開している注染業など繊維関連産業も特色のある地場産業である。また,大阪府が大阪経済の地盤沈下を回復するため,1958年以降大和川河口から石津川河口までの間の海面を埋め立て,素材型中心の重化学工業を誘致して堺・泉北コンビナートを造成した。新日本製鉄,日立造船,三井東圧(現,三井化学),大阪瓦斯,関西電力などの大企業に加え,中小企業団地も立地し,大阪市に次いで府下2位(1995)の工業出荷額をあげている。
執筆者:秋山 道雄
現在の堺市周辺には,大規模な四ッ池弥生遺跡や,仁徳陵を中心とする百舌鳥(もず)古墳群,無数の陶邑(すえむら)古窯址群,奈良時代の僧行基の出生地と伝える家原寺(えばらでら)などがあり,古くから開かれた地であったことがわかる。堺という地名は,仮名では1045年(寛徳2)藤原定頼の歌集に〈さか井〉とあらわされているのが初見で,1081年(永保1)の《藤原為房卿記》には〈和泉(いずみ)堺之小堂〉と見える。この小堂は,平安時代にさかんになった熊野参詣路に設けられた九十九王子の一つであって,摂津,和泉,河内の3国の国境(くにざかい)に当たっていたので,堺の名称がつけられた。
中世初期には荘園となり,北荘(摂津),南荘(和泉)と二つの集落に分けられており,南北両荘をあわせては堺荘と呼ばれていた。一漁港にすぎなかった堺は,南北朝時代から背後に摂・河・泉をひかえ畿内と瀬戸内海を結ぶ港として,軍事的・政治的な要地となり,急速に都市的発展をとげた。文化の面でも1364年(正平19・貞治3)《論語集解》や,69年(正平24・応安2)《五灯会元》などの刊行も行われた。また鎌倉時代の桜井神社拝殿や法道寺食堂(じきどう),南北朝時代の法道寺多宝塔,日部(くさべ)神社の正平24年の銘をもつ石灯籠などからも,その発展の姿がうかがえる。99年(応永6),堺を中心として大内義弘が室町幕府と戦った応永の乱では,焼失した民家1万戸と記されていることからも,その繁栄ぶりをうかがうことができる。このように経済的に富裕な町であったため,東寺,四天王寺,相国寺,住吉神社の所領となり,あるいは大内,山名,細川などの守護大名の支配地,さらに幕府の直轄地となるなど,しきりに領主勢力の交替をみた。応仁の乱後,畠山氏や細川氏の一族間の権力争い,ついで三好・松永の争いなどのため堺は幾度か大軍を送迎し,市内にもたびたび陣所が構えられた。
1465年(寛正6)兵庫を出発した遣明船は,細川氏と大内氏が対立することになったので,大内氏の勢力下であった瀬戸内海をさけ,四国の南を迂回して69年(文明1)堺に帰着した。以後,堺は遣明船の発着港となり,一躍大陸貿易港へと発展し,博多と並んで明,朝鮮,琉球(沖縄)などとの海外貿易を独占した。とくに堺商人は遣明船の請負額を高め,独占的にその権利をにぎり,この貿易によってもたらされる莫大な利益のほか,出入船舶の関税や商業の利益,さらには金融業を営んだ土倉(どそう),納屋(なや),問丸(といまる)などの存在で,堺の商業資本的な富の増殖は著しいものがあった。堺の商人を中心とする町民たちは,領主が弱体化したことを利用し,その経済的な富を基盤として,納屋貸十人衆を代表とする地下請(じげうけ)を行い,町内の公事(くじ)訴訟の決裁も十人衆が行うというような自治的な団結組織をつくり,都市自立の態勢を強化した。この自治的共同体組織を指導したのは納屋衆あるいは会合衆(えごうしゆう)と呼ばれる門閥的な豪商たちであった。町民たちは市街を兵火から守るため,南,北,東に濠をめぐらして町を囲み,傭兵隊を置き一種の要塞都市をつくりあげた。そして16世紀の半ばごろには,日本の都市史上では珍しい自由都市的な発展をとげ,その勢力が頂点に達したのは,1560年代(永禄年間)であった。
当時日本にいたキリスト教(イエズス会)の宣教師は,日本全国で堺の町より安全なところはない,町は堅固で西の方は海にのぞんでいて,他の側は深い濠で囲まれて常に水がみちている,ベネチアのように執政官によって治められ,共和国のようである,などと手紙に書いている。このように急速に発展した商品経済の伸張と南蛮貿易の発展によって,堺は一段と経済的繁栄をきたした。
この繁栄のもとで,文化,芸能,技術の面でも,《古今集》の秘義を宗祇から伝えられた〈堺伝授〉の牡丹花肖柏(ぼたんかしようはく)や,能楽喜多流の祖喜多七大夫,隆達節をはじめた高三隆達(たかさぶりゆうたつ)などが活躍した。また車屋道晰(どうせき)による謡曲車屋本の出版,阿佐井野宗瑞(そうずい)による《医書大全》10冊の出版をはじめとして,天文版論語,年代記などの自費出版も堺の商人たちによって行われている。また,北向道陳(きたむきどうちん),武野紹鷗(たけのじようおう),津田宗達,千宗易(利休),津田宗及,今井宗久,山上(やまのうえ)宗二などは茶道史上に不朽の名をとどめている。さらに堺鉄砲,織物,医術など技術の面も高度の発達をとげた。
1568年(永禄11)織田信長は待望の入洛を果たすと,堺に矢銭(屋銭)2万貫を要求してきた。会合衆たちは,これを拒絶し信長と一戦を構える準備をした。ところが堺がたのみにしていた三好三人衆が信長にやぶれて四国へ退去したこともあって,ついに信長の武力的圧力によって自治の伝統も打ちやぶられ,69年には信長の直轄地となり代官を迎えるようになった。
執筆者:尼見 清市
信長に屈服した堺は,以後近世武家政権の直轄地となり,堺奉行(政所)によって支配された。堺は荘園制下に遠隔地商業の中心地となり,海外貿易によって発展し,輸入品を原材料とした高級衣料,薬品,雑貨や鉄砲,包丁などの武具・金具を特産品としていた。また,紀州街道や高野街道,奈良へ至る長尾街道や竹之内街道も堺から放射状に伸びていた。このような伝統的手工業技術の高さと,海陸交通の要衝としての位置が,武家統一政権を支える軍事的・経済的基盤となったのである。秀吉が1586年(天正14)自治都市の象徴であった環濠を埋めさせたのは有名であるが,1615年(元和1)大坂夏の陣後の復興時に,この濠も復元された。この新しい都市建設は,北庄,中筋,舳松(へのまつ),湊村(堺回り4ヵ村)の一部を新たに編入し,北庄,中筋,舳松の村民を居住させて農人(のうにん)町を設定し,その外側に濠をめぐらしたのである。濠外に置かれ,農業のほか,斃牛馬処理と行刑役とを負担させられた被差別部落の存在は,近世都市の身分制的構造をよく示している。
堺の中心部は東西に走る大小路と南北の大道筋によって区分され,これらと並行して走る道筋の向かいあった長方形の両側町179によって構成されていた。この詳細は〈元禄二年堺大絵図〉によって知ることができる。各町は大きく南北両郷(後に南北両組)に分けられて運営され,各惣会所において惣年寄5名,惣代3名,職事3名が任務にあたっていた。初期の惣年寄は糸割符年寄を兼ねる門閥特権商人であったが,貿易体制の変化,生糸貿易の衰退によって17世紀後期には新興町人勢力と交替した。1704年(宝永1)の大和川の付け替えは河口に膨大な土砂を運び,新田を形成するとともに船舶の入津を困難とさせ,堺の衰退を決定的にした。18世紀の末,堺奉行贄正寿(にえまさとし)は堺港の浚渫に成果をあげたが,堺の繁栄は戻らず,むしろ周辺泉北農村の発展のほうが著しかった。
執筆者:菅原 憲二
堺市東端の旧町。旧南河内郡所属。人口3万7618(2000)。南東部は羽曳野丘陵からなり,北西部には狭山扇状地が広がる。大小300の溜池があり,稲作中心の農業が盛んであったが,近年は工場や住宅の建設が進んでいる。特に工業は1960年代後半以降大きく発展し,機械,金属,木材関連の事業所が多く,68年には南部に木工団地が完成した。5世紀中ごろと推定される前方後円墳黒姫山古墳(史)がある。国道309号線が通じる。
執筆者:松原 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
大阪府の中央西南部に位置し,大阪湾に臨む。摂津・河内・和泉3国の国境に位置するところから堺の名があてられた。大山(だいせん)古墳など多数の古墳が存在する。堺浦は内海航路の拠点で,南北朝期には双方の争奪戦が展開され,応仁・文明の乱後も海外貿易・商工業都市として繁栄。町人自治のもとに茶の湯をはじめとする町衆文化が創造されたが,江戸時代には幕領となった。さらに,鎖国や大坂の発展で港湾機能は低下した。1889年(明治22)市制施行。重化学工業都市となっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…条里は6地域で復元されているが,全体に8方向の条里が入り組み,郡単位の統一性はない。 伝仁徳陵,伝履中陵など4世紀末~5世紀の大古墳の集中する百舌鳥(もず)古墳群(堺市),5世紀後半ごろからの古代須恵器生産の中心であった陶邑(すえむら)古窯址群(泉北丘陵),6世紀の群集墳の信太千塚(和泉市)や陶器千塚(堺市)などの遺跡も多く,茅渟(ちぬ)山屯倉(みやけ)も比定地は確定していないがこの地域に所在した。記紀によると,允恭(天皇)の愛妃衣通(そとおり)姫が茅渟宮に住んだという伝承や,在地の有力首長根使主(ねのおみ)の反乱伝承も伝えられている。…
…大阪府堺市鳳北町に鎮座。大鳥連祖(おおとりむらじのみおや)神と,1957年増祀された日本武(やまとたける)尊をまつる。…
…このように,いろいろな機会に舶載された唐綾,唐錦,金襴,緞子,印金,羅,紗,繻子,北絹などの裂類は貴顕の人々に珍重愛好され,また多くの人々の染織に対する視野をひろめ,ひいては日本の染織に刺激を与え,その発達に大いに役立ったのである。名物裂
[近世初期]
中世末期から近世初期に隆盛した機業地は,京都のほか山口と博多と堺とがあった。山口は正平年間(1346‐70)に大内弘世が京都にならって町づくりをし,都の文化を導入したことから織物の発達をみたといわれる。…
…堺は港町として14世紀南北朝の時代から発展し,15~16世紀室町時代に最盛期を迎えるに伴って,その経済力を背景とした素封家により,いくつかの開版事業がなされた。一般にはそれらの開版者名や開版の年号を冠して,〈阿佐井野版〉とか,〈正平版〉〈天文版〉などと称したが,〈堺版〉〈堺本〉と総称する。…
…第2次大戦後,とくに高度経済成長期には石油化学工業など重化学工業が急成長して瀬戸内工業地域に発展した。沿岸には特定重要港湾が7港(大阪,堺泉北,神戸,姫路,徳山下松(くだまつ),下関,北九州)と重要港湾が28港(水島,高松,福山,広島,呉,松山,大分,苅田など)あり,年間約4万隻(1982)の外航商船が入港し,全国の4割以上を占めている。北部の複雑な海域を避けて,主として単調な南部に外航商船など大型船の推薦航路があるが,全国旅客船航路の6割が内海に集中するほか,備讃瀬戸一帯でも5000隻の出漁船があり,本土~島,島~島の連絡船,各種内航貨物船,阪神~四国・九州の大型フェリーなどで錯綜している。…
…のちに鉄砲は発祥の地にちなんで種子島とも呼ばれた。種子島の技術は紀州根来(ねごろ)の杉坊妙算や堺の橘屋又三郎によって畿内へ伝えられ,さらに日本各地に広まっていった。また島津義久,将軍足利義晴らを経て近江の国友(くにとも)へ伝えられ,国友鉄砲鍛冶の起源ともなった。…
…中国路は,おおむね兵庫を発航地とし,瀬戸内海すなわち中国路を通過して博多に至り,五島に集結して適当な季節風を待ち,東シナ海を一気に横断して中国浙江省の寧波(ニンポー)付近に達する航路である。これに対し,南海路は堺を発航地とし,四国南岸土佐沖を通過して薩摩の坊ノ津に至り,九州西岸を北上していったん博多に入り,さらに五島に出てから寧波に達する航路である。中国路と同様に北東の季節風を利用したが,春と秋とでは方向が多少異なっていたから,春は五島の奈留浦から,秋は北の肥前大島小豆浦(的山(あずち)湾)から外洋に出た。…
…このようにあらゆる権力の支配,社会の規制から自由であることを社会的に承認されていた楽市場は,中世の自由都市,自治都市成立の原点を占める存在であり,当時十楽(極楽)の津(港)と呼ばれた伊勢桑名は,自治都市として権力の支配を拒否していた。事実,中世の自由都市,自治都市を代表する堺や博多も楽市ないしは楽津と呼ばれる存在であったことは,1587年豊臣秀吉が博多に出した法令が,楽市という言葉はないものの,その内容はまったく保証型楽市令と同じものであったことからも確認される。ところで,このような権力と無縁の存在である楽市場が,その機能を楽市令というかたちで権力に保証されたり,さらに権力によって利用されたりするということは,すでに本来の楽市としての性格を放棄したことを意味する。…
※「堺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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