塩谷青山(読み)シオノヤ セイザン

20世紀日本人名事典 「塩谷青山」の解説

塩谷 青山
シオノヤ セイザン

明治・大正期の漢学者



生年
安政2年1月27日(1855年)

没年
大正14(1925)年2月2日

出生地
江戸・青山

本名
塩谷 時敏

別名
字=修卿

経歴
塩谷宕陰の嗣子となって後を承けた簣山(宕陰の弟)の子として生まれ、家学を継ぐ。昌平黌に学び、維新後芳野金陵島田篁村、中村敬宇らに学んだ。明治8年内閣修史局に出仕するが翌年辞し、17年再び修史局に戻る。22年より第一高等中学校教授となり、大正9年まで勤めた。著書に「青山文鈔」「文章截錦」「漢文類別」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「塩谷青山」の解説

塩谷青山 しおのや-せいざん

1855-1925 明治-大正時代の漢学者。
安政2年1月27日生まれ。塩谷簣山(きざん)の子。昌平黌(しょうへいこう)にまなび,中村正直(まさなお),芳野金陵(よしの-きんりょう)らに師事。父の没後,東京下谷(したや)に塾をひらく。明治8年より太政官修史局につとめ,22年第一高等中学教授となる。大正14年2月2日死去。71歳。江戸出身。名は時敏。字(あざな)は修卿。著作に「青山文鈔」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の塩谷青山の言及

【塩谷宕陰】より

…江戸後期の儒者。江戸の人。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵。宕陰は号。昌平黌に学び,のち松崎慊堂(こうどう)に師事し浜松藩主水野忠邦の儒官となる。忠邦が幕府の老中となって天保の改革を推進すると,顧問として忠邦に助言した。忠邦の失脚後も浜松藩中に重きをなし,禄200石に至った。折からアヘン戦争の風聞が伝わり,ペリーが米艦を率いて浦賀に来航するなど,欧米諸国による侵略を恐れて日本の朝野では議論が沸いたが,宕陰は《阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)》や《籌海私議(ちゆうかいしぎ)》を著して海防の必要を説いた。…

※「塩谷青山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android