江戸幕府直轄の学校。昌平坂聖堂、昌平坂学問所ともよぶ。もと幕府の文教方面を担当した林家(りんけ)の私塾だったが、元禄(げんろく)初年、湯島聖堂建立と同時に同敷地内に移され、寛政(かんせい)の改革の際、実質的に官学となった。
林家の初代羅山(らざん)が1630年(寛永7)に幕府から上野忍ヶ岡(しのぶがおか)に土地を与えられ、書院と文庫を設立したのに始まり、32年尾張(おわり)藩主徳川義直(よしなお)の援助で孔子廟(こうしびょう)(先聖殿)を創建、2代目鵞峰(がほう)のとき、63年(寛文3)に「弘文館(こうぶんかん)」の名が与えられ学寮も設けられて、門人の教育も本格化した。5代将軍徳川綱吉(つなよし)は90年(元禄3)に孔子廟を神田湯島へ移し、3代目鳳岡(ほうこう)(信篤(のぶあつ))が大学頭(だいがくのかみ)に任ぜられて、仰高門(ぎょうこうもん)東舎での儒教経典の講釈が始まった。4代以後の林家は人材なく他学派に圧倒され、1703年(元禄16)と72年(安永1)に火災にあったため不振状態となる。やがて87年(天明7)松平定信(さだのぶ)の老中首座就任、寛政の改革が始まるや、学舎を新築拡張、名を昌平坂学問所と改め、「正学」(程朱(ていしゅ)学)以外の異学を禁じ、柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(かんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)、古賀精里(こがせいり)を迎えて教授陣を強化した。93年(寛政5)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の子衡(たいら)が林家を継ぎ(述斎)、大学頭となったのちは、学制、施設、人事の全般が整備。旗本の子弟のほか、陪臣、郷士、浪人の入学をも許したから、幕末には諸藩の秀才が集まった。寛政以後、佐藤一斎(いっさい)、安積艮斎(あさかごんさい)らの活動があり、1862年(文久2)学問所奉行(ぶぎょう)所の新設に伴い塩谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒(そくけん)らも教授陣に加えられて、多くの人材を養成した。明治維新後は昌平学校となり、1869年(明治2)に大学校と改称、71年に廃止された。寛政年間建築の聖堂は関東大震災で消失、のち1935年(昭和10)に再建された。
[宮崎道生]
『和島芳男著『昌平校と藩学』(1962・至文堂)』▽『鈴木三八男著『聖堂物語』(1969・斯文会)』
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…江戸幕府直轄の学問所。江戸湯島にあり昌平黌(しようへいこう)ともいう。1790年(寛政2)寛政改革の一環として聖堂預りの林大学頭(信敬)に教学伸張の令(寛政異学の禁)を発し,つづいて学制規則を定め,庁堂学舎改作や教官増強の議がなされた。…
…その蔵書は今日,一部は宮内庁書陵部,大部分は国立公文書館に移管されている。 このほか幕府の直轄学校昌平黌(しようへいこう)に文庫が併置され,紅葉山文庫の本も何度か移されている。各地の藩学付属の文庫,大名の個人文庫にも注目すべきものがある。…
…ついで1709年版権保護を出版者側が求めたことで,納本受入れ図書館は計9館に増え,最終的には,1911年以降今日に至るまで,大英博物館図書館,オックスフォード,ケンブリッジ両大学図書館,スコットランドの国立図書館,ウェールズの国立図書館,それにアイルランドのトリニティ・カレッジ図書館となっている。 日本の場合は1842年(天保13)幕府の官学であった昌平黌(しようへいこう)が〈全国出版物改め〉を実行し,新刊書の納本をさせている。また明治新政府は1875年,内務省が納本制度をとっており,その本の現物は旧帝国図書館に交付という形で納められた。…
※「昌平黌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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