島田篁村(読み)しまだこうそん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島田篁村」の意味・わかりやすい解説

島田篁村
しまだこうそん
(1838―1898)

明治時代の漢学者、文学博士。天保(てんぽう)9年江戸の大崎(現、品川区大崎)に生まれる。名は重礼、字(あざな)は敬甫(けいほ)、号は篁村。海保漁村(かいほぎょそん)、安積艮斎(あさかごんさい)に学び、のち昌平黌(しょうへいこう)に入学、さらに同校助教になる。諸藩の招きに応ぜず、明治になり下谷(したや)に私塾雙敬精舎(そうけいしょうしゃ)を開く。のち高等師範学校(後の東京教育大学)、学習院の教授を経て、東京帝国大学教授となる。明治31年没。墓は東京・谷中(やなか)天王寺。清(しん)朝の考証学宋儒(そうじゅ)の義理をあわせとる学風を樹立した。著書は『篁村遺稿』『篁村文稿』など。

[渡部正一 2016年3月18日]

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朝日日本歴史人物事典 「島田篁村」の解説

島田篁村

没年:明治31.8.27(1898)
生年:天保9.8.18(1838.10.6)
幕末明治期の漢学者。名重礼,字敬甫,篁村と号す。江戸生まれ。海保漁村,安積艮斎に学び,昌平黌では塩谷宕陰の影響を受けた。越後(新潟県)村上藩賓師として藩校に教えつつ維新を迎え,江戸に帰る。下谷に家塾双桂学舎を開くが,明治14(1881)年東京大学教授となってからは塾をやめた。21年文学博士,25年東京学士会院会員。宋学根幹に据え漢唐の古注学と清朝考証学を方法として取り入れたその学は,中国古典研究の近代化を促したといえる。礼学を尊ぶ一方,講義はすこぶる磊落で,教室で悠々と煙草を吸い和気あいあいと世間話をしながら授業に入ったという。食を減じて書物を購い,ために蔵書に富んだ。<著作>『篁村遺稿』『篁村講演集』

(宮崎修多)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島田篁村」の解説

島田篁村 しまだ-こうそん

1838-1898 幕末-明治時代の漢学者。
天保(てんぽう)9年8月18日生まれ。海保漁村(かいほ-ぎょそん),安積艮斎(あさか-ごんさい),塩谷宕陰(しおのや-とういん)にまなび,昌平黌(しょうへいこう)助教となる。維新後,東京下谷に私塾双桂精舎をひらき,明治14年東京大学教授となった。明治31年8月27日死去。61歳。武蔵(むさし)荏原郡(東京都)出身。名は重礼。字(あざな)は敬甫。著作に「篁村文稿」など。

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