壬生忠見(読み)みぶのただみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「壬生忠見」の意味・わかりやすい解説

壬生忠見
みぶのただみ

生没年未詳。平安中期の歌人三十六歌仙の1人。忠岑(ただみね)の子。幼名名多(なた)。954年(天暦8)御厨子所定額膳部(みずしどころじょうがくぜんぶ)、958年(天徳2)摂津(せっつ)大目(だいもく)になった。家集に、三十六人集の一つ『忠見集』があり、『後撰(ごせん)集』以下の勅撰集に35首入集(にっしゅう)。「天徳(てんとく)四年内裏歌合(だいりうたあわせ)」に、忠見の「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」が、平兼盛(かねもり)の「忍ぶれど色に出(い)でにけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで」と争って敗れた話はよく知られ、どちらも『拾遺(しゅうい)集』恋一や『百人一首』に収められているが、後の評価はむしろ忠見のほうが上である。

[小町谷照彦]


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朝日日本歴史人物事典 「壬生忠見」の解説

壬生忠見

生年:生没年不詳
平安時代の歌人。三十六歌仙のひとり。忠岑の子。天暦8(954)年に御厨子所の膳部,天徳2(958)年に摂津大目となる。幼童のときより即興的な歌才をみせ,凡河内躬恒の先例にちなみ,御厨子所に配属されたらしい。家集に『忠見集』があり,『後撰集』以下の勅撰集に35首入集。その「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の歌が,『天徳四年内裏歌合』で,平兼盛の歌と競った話は有名で,その負けを苦に悶死したという説話(『沙石集』)も生まれた。2首はともに百人一首に採られている。

(浅見緑)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「壬生忠見」の解説

壬生忠見 みぶの-ただみ

?-? 平安時代中期の官吏,歌人。
壬生忠岑(ただみね)の子。三十六歌仙のひとり。官位はひくく,摂津大目(だいさかん)。天徳4年(960)の内裏歌合で「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初(そ)めしか」(「小倉百人一首」)の作が,平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」に敗れた話が有名。歌は「後撰和歌集」などにはいる。家集に「忠見集」。

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世界大百科事典(旧版)内の壬生忠見の言及

【平兼盛】より

…山城介,大監物を経て駿河守従五位上にいたる。《天徳四年内裏歌合》で壬生忠見の秀歌に対して〈忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで〉(《拾遺集》巻十一)の秀歌を詠んだところ,判者たちは困惑して勅判を求め,その結果,敗れた忠見はそれを苦にして不食の病となって没したという話が伝わっている(《沙石集》)。円融院子の日(ねのひ)行幸和歌には,和歌の題と序を献じた。…

※「壬生忠見」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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