平安前期の歌人。生没年不詳。三十六歌仙の一人。《古今和歌集》撰者の一人。忠見の父。和泉大将藤原定国の随身,左近衛の番長などを経て,905年(延喜5)には右衛門の府生であった。左近衛将監,御厨子所預,摂津権大目などに任ぜられたらしいが,《古今集》撰者の中では最も卑官であった。《古今集》以下の勅撰集に84首,家集に《忠岑集》がある。和歌を10種類の歌体に分け,5首ずつの例歌と歌体の説明を漢文で施した歌論書《和歌体十種》(《忠岑十体(ただみねじつてい)》ともいう)は忠岑作と伝えられるが,最近では忠岑に仮託されたとする偽書説が有力である。《和歌体十種》を根拠として,忠岑は90歳ころまで生存したとされていたが,もう少し早い時期に没したらしい。初春の清新な気分を詠んだ〈春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ〉(《拾遺集》巻一)にみられるように,端正で平明な表現の中に静かな抒情をただよわせた歌が多い。
執筆者:小沢 正夫
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生没年不詳。平安前期の歌人。『古今和歌集』の撰者(せんじゃ)。三十六歌仙の1人。忠見の父。右大将藤原定国の随身から右近衛(うこのえ)番長、右衛門府生(うえもんのふそう)、御厨子所預(みずしどころあずかり)、摂津権大目(せっつのごんのだいさかん)などを務めて、930年(延長8)以後に没したか。早く892年(寛平4)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮(かんぴょうのおおんとききさいのみや)歌合」にかなりの歌を残し、『新撰万葉集』を通じて、『古今集』直前の時期には紀友則(きのとものり)とともに有力な歌人であった。『古今集』には集中第四位の36首入集(にっしゅう)。その歌は清新で鋭い機知にあふれ、また体験的、主観的に事象を割り切るところがあって、典雅さにおいて『古今集』の他の3撰者にはやや及ばない。また、その身分の低さがうとまれたのか、『古今集』以後の活躍を伝えるものがない。しかし後世、象徴ということが尊ばれるようになると、再評価されるところがあった。
有明けのつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし
[菊地靖彦]
(田中登)
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生没年不詳。平安前・中期の歌人。三十六歌仙の1人。安綱の子。子に忠見(ただみ)。卑官に終始したが,歌人として「寛平后宮歌合(きさいのみやうたあわせ)」などの歌合や屏風歌で活躍した。「古今集」撰者の1人。「大井川行幸和歌」には紀貫之(つらゆき)とは別に序を書いた。「古今集」以下の勅撰集に80余首入集。家集「忠岑集」。なお序文に945年(天慶8)の忠岑の著とある歌論書「和歌体十種」は,後人による偽書とする説が強い。
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…完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。…
※「壬生忠岑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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