豊臣秀吉による朝鮮侵攻(1592~93年,97~98年)に対する朝鮮側の呼称。日本では文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役という。秀吉は明征服の野望を抱き,朝鮮に同調を求めたが,朝鮮側がこれを拒否,壬辰の年(1592年)に15万の大軍で朝鮮に攻め入った。党争の影響もあって十分な備えができていなかった朝鮮側は敗退を重ね,秀吉軍は短期間に北部地域にまで進攻した。しかし李舜臣(りしゅんしん)率いる水軍の活躍や,各地で蜂起した義兵,宗主国として参戦した明軍の力もあって,戦況はしだいに逆転した。明と日本の間で講和交渉が始まったが決裂し,丁酉の年(1597年)に秀吉は再度大軍を送った。このときは秀吉軍は南部海岸地帯を確保するにとどまり,膠着状態になったが,秀吉の死により98年に撤退した。朝鮮側に大きな被害を与えただけでなく,豊臣政権や明滅亡の一因ともなった。
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