多 忠修(読み)オオノ タダオサ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「多 忠修」の解説

多 忠修
オオノ タダオサ


職業
ジャズ・サックス奏者 指揮者 作曲家 編曲家

別名
筆名=萩原 忠司

生年月日
大正2年 7月14日

出生地
東京都

学歴
芝中

経歴
雅楽の名門・多家に生まれ、芝中学から宮内省雅楽部に進む。昭和6年18歳でジャズの三上秀俊バンドに加入、日米ダンスホールでプロデビュー。中沢寿士バンドを経て、12年新橋ダンスホールで14人編成による自己のジャズ・オーケストラ、多忠修とミュージックを結成。その後、しばらく船上で演奏活動を行い、帰国後の15年に日劇オーケストラの指揮者となる。18年NHK東管に入るが、19年横須賀海兵団に入隊戦後は松本伸とニュー・パシフィックバンド、南里文雄とホット・ペッパーズ、渡辺弘とスター・ダスターズなどを渡り歩いたのち、29年鶴田富士夫、松田孝義ら一流のプレイヤーとともに自己のゲイ・スターズを組織、クールなサウンド歯切れのよいリズムで好評を博した。しかし、たびたびのメンバー交代(一時は穐吉敏子やフランキー堺らも在籍)などからバンドの経営が安定を欠くようになり、ついに賃金未払い問題にまで発展、メンバー全員が脱退しバンドの休止を余儀なくされた。のち不払い賃金を清算してバンドを再編し、ビクター・オールスターズ、ビクター・ゲイ・スターズと改名したのを経て、35年バンドを野々村直造に託し、東京宝塚劇場の指揮者に就任。さらに日劇オーケストラの指揮者に転じ、56年の日劇のさよならショーでもタクトを振るった。一方、作・編曲家としても活躍し、特に「さいざんすマンボ」をはじめとするトニー谷一連の曲を作った他(谷のバックバンドも務める)、雪村いづみの「東京の三人娘」や、井上梅次監督「ジャズ娘乾杯」「素晴しき男性」「嵐を呼ぶ楽団」などの映画音楽を手がけた。

没年月日
平成8年 1月22日 (1996年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

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