翻訳|jazz
アメリカ音楽の一種類。黒人(アフリカ系アメリカ人)のブラスバンド(吹奏楽)によるパレードの行進音楽からダンス音楽、そして鑑賞のための音楽へと発展し、今日では世界的なポピュラー音楽としてもっとも重要な一分野となっている。
ジャズは、アメリカの黒人の民俗音楽と白人のヨーロッパ音楽との融合によって20世紀の初めごろ、ルイジアナ州ニュー・オーリンズの黒人ブラスバンドから生まれた。そのリズム、フレージング、サウンド、ブルー・ノートblue note(第3度と第7度の音が半音下がった独特の旋法)はアフリカ系民俗音楽の影響とアメリカ黒人独特の音楽感覚とから生まれ、使用楽器、メロディ、ハーモニーはヨーロッパ音楽の伝統に準じている。
また、その特徴としては、(1)4分の4拍子の第2拍と第4拍にアクセントを置くオフ・ビート(アフター・ビートともいう)のリズムから生じるスウィング感、(2)インプロビゼーション(即興演奏)に示される自由な創造性と活力、(3)演奏者の個性を強く表出するサウンドとフレージング、以上の3点があげられ、これらがヨーロッパ音楽またはクラシック音楽との根本的な違いであるといえる。
[青木 啓 2018年11月19日]
語源については諸説あるが、確定することはできない。「卑猥(ひわい)な意味をもつ」というイギリスの古語ジャスjassによるとする説、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味や、熱狂とか、急速なテンポやリズムを意味するスラングのジャズjazzによるとする説、チャールズというドラム奏者の名がCharles→Chas→Jass→Jazzと転訛(てんか)したとする説などがある。jassということばの意味はさまざまに変化し、1910年代のシカゴでは「快適」とか「ごきげん」といった意味のスラングになっていた。前記のような特色をもつ黒人音楽をジャズと称するようになった時期も明らかではない。名ジャズ・ピアニストで作曲家のジェリー・ロール・モートンJelly Roll Morton(1890―1941)は、1902年に自分のピアノ演奏スタイルをジャズと名づけたといい、後年にジャズの創始者と自称したが、信じる人はいなかった。ジャズと称される以前は、楽団演奏でも大流行した黒人のピアノ音楽ラグタイムragtimeと混同された形でラグタイム・ミュージック、またはラグとよばれていた。
1916年にシカゴで活動していた白人グループ「ディキシーからきたスタインのバンド」が、jassということばにヒントを得て「スタインのディキシーjassバンド」と改名し、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルにはjass bandと印刷され、続く2月録音のレコードのラベルにはjazz bandと印刷されており、当時はスペリングが一定していなかったことがわかる。
[青木 啓 2018年11月19日]
アメリカにアフリカから黒人が労働力、つまり奴隷として本格的に輸入され始めたのは1619年である。輸入は年ごとに盛んになった。中南米を経て運び込まれたもので、とくに西インド諸島が中継地となっていた。白人は、奴隷である黒人のもっていたアフリカの慣習を、宗教も含めていっさい禁止し、奪った。だが黒人は、アフリカの伝統的音楽特性をさまざまな形で表出した。その最初の音楽的表現はシャウトshoutおよびハラーhollerであり、ともに「叫ぶ」という意味をもち、短いことばで音程を滑らせながら叫ぶように歌う。それは彼らの感情の単純素朴な音楽表現であった。
次に現れたのはワーク・ソングwork song(労働歌)で、農園とか鉄道などの作業時に歌われる。ここに応答形式、あるいは交互歌唱形式が生まれた。囚人のワーク・ソングとしてのチェイン・ギャング・ソングchain gang song(鎖でつながれた囚人の歌)もある。やがてキリスト教の賛美歌をはじめとするヨーロッパ音楽の影響を受けて、黒人独特の感覚で融合しながらブラック・スピリチュアルblack spiritual(黒人霊歌)がつくられ、広く普及した。
南北戦争(1861~1865)が黒人奴隷解放を主張する北軍の勝利で終わったあと、解放された黒人は個人としての生活に入ったが、その私生活の哀歓を素朴な形式で率直に表現する歌が南部で生まれた。これがブルースbluesである。奴隷解放後は芸能人や音楽家として身をたてる黒人が増えたが、そのほとんどはミンストレル・ショーやボードビルなどの大衆演芸を活動の場とした。1890年代の中ごろに、ミズーリ州の酒場やクラブで働く黒人ピアニストたちの間で、ラグタイムと称するリズミックなスタイルのピアノ音楽が生まれて流行した。これは、クラシック音楽と同様に、楽譜どおりに演奏するものであって即興性はない。その点からジャズではないのであるが、これまたジャズの母体の一つになった。
そのころルイジアナ州ニュー・オーリンズでは、黒人によるブラスバンドが盛んになった。港のあるこの町は音楽の盛んな町でもあったが、南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を黒人たちが安価で入手できたためという。黒人ブラスバンドの活躍の場は祝祭パレードや葬送行進で、その行進曲もジャズの母体の一つになっている。
[青木 啓 2018年11月19日]
ニュー・オーリンズの黒人ブラスバンドはアマチュアの人々によって編成され、白人のバンドをまねてヨーロッパの舞曲や行進曲、賛美歌、黒人霊歌などを演奏した。楽譜の読めない人も多いバンドの指導をしたのはクレオール(黒人と白人の混血人、おもにスペイン人かフランス人との混血)であって、クレオールは奴隷解放までは白人と同等に扱われた。黒人バンドの人々は、白人の直接の影響ではなく、クレオールを通じて白人の音楽やヨーロッパの手法を学び、消化したのである。黒人バンドにはシャウトやハラー、ワーク・ソングなどの感覚が入り込み、ラグタイム曲や行進曲の演奏に黒人独特のリズム感をみせ始め、歌曲であるブルースを器楽化するようになり、原曲を即興的に崩して演奏する者も出現した。トランペット奏者バディ・ボールデンBuddy Bolden(1877―1931)はその代表的な一人で、伝説的な人物となっている。さらに20世紀初めごろ、リズム・セクションに支えられたトランペット、トロンボーン、クラリネットの三管編成によるコレクティブ・インプロビゼーションcollective improvisation(集団即興演奏)とそのアンサンブル進行のスタイルが大きな特色として形成された。こうして黒人ブラスバンドからジャズが誕生した。
[青木 啓 2018年11月19日]
もっとも初期のスタイルは、おもに行進するテンポで、管楽器がメロディを即興的に崩しながら絡み合い、対位法的効果を生むものであった。その集団即興演奏とアンサンブルに特色のあるスタイルを、ニューオーリンズ・ジャズNew Orleans jazzと称する。このスタイルによって白人が演奏するジャズをディキシーランド・ジャズDixieland jazzと称するが、今日では区別しないことが多く、一般にディキシーランド・ジャズとよばれている。ディキシーとはアメリカ南部諸州をさす俗称である。
ニュー・オーリンズの黒人ジャズメンは、娼家(しょうか)の並ぶ紅灯街ストーリービルstoryvilleとその周辺のクラブやキャバレーなどを主要な仕事場としていた。1910年代になると、彼らの演奏に魅せられて学び、ジャズを演奏する白人青年も現れた。第一次世界大戦中の1917年11月、ニュー・オーリンズの港は海軍の軍港になり、海軍長官の命令でストーリービルは閉鎖された。そこで、職場を失ったジャズメンはシカゴ、ニューヨーク、メンフィス、ミズーリ州のカンザス・シティなど北部や中西部の都会に新しい活動の場を求めて移住し、これがジャズの全米的な普及と発展につながった。
[青木 啓 2018年11月19日]
優秀な黒人ジャズメンが多く集まったのはシカゴで、コルネットの名手キング・オリバーKing Oliver(1885―1938)に続いて、1922年には彼の弟子であるルイ・アームストロングもシカゴに進出して活躍。ルイは、アンサンブル中心であった従来のジャズを、ソロ中心のジャズに変え、今日につながるジャズの新方向を示した。シカゴの白人青年たちの間にもジャズを志す者が現れ、ニューオーリンズ・ジャズに白人の感覚とフィーリング、洗練度を加えて演奏し、独特のスタイルをつくった。これがのちにシカゴ・スタイルChicago styleとよばれたものである。シカゴの白人ジャズメンには、ベニー・グッドマン、ジーン・クルーパ、ギター・バンジョー奏者のエディ・コンドンEddie Condon(1905―1973)、サックス奏者のバド・フリーマンBud Freeman(1906―1991)らがいる。彼らは黒人ジャズメンのほかに、白人ビックス・バイダーベックBix Beiderbecke(1903―1931)からも影響を受けた。ビックスは天才的なコルネット奏者で、独自の感覚による演奏で白人ジャズを創造し、シカゴの白人ジャズメンの中心人物となった。なおシカゴの黒人街で1920年代に、ピアノによるブルース演奏がブギ・ウギboogie woogieとして発展した。ブギ・ウギは黒人ピアノ奏者ジミー・ヤンシーJimmy Yancy(1894/1898―1951)が始め、「パイン・トップ」の愛称で知られるクラレンス・スミスClarence Smith(1904―1929)がそのスタイルを完成させたという。
1920年代のニューヨークでは大編成楽団によるジャズ、つまりビッグ・バンド・ジャズの発展が目覚ましい。黒人居住地区ハーレムのクラブやボールルーム(ダンスホール)で活躍するフレッチャー・ヘンダーソンFletcher Henderson(1897―1952)やデューク・エリントンらは、独特の編曲によるサウンドとスタイルを創造している。これらのビッグ・バンドはダンスのための音楽として演奏しなければならなかったが、そのなかにジャズの精神と語法を盛り込み、人々にジャズの魅力を知らしめた。またハーレムから新しいピアノ・スタイルも生まれている。黒人ジェームズ・P・ジョンソンJames P. Johnson(1894―1955)はラグタイム・ピアノ奏法をもとに、左手でベース・ビートをオクターブに「大またでまたぐ」ように弾くスタイル、つまりストライド・ピアノstride pianoというスタイルを生み、デューク・エリントン、ファッツ・ウォーラーFats Waller(1904―1943)、アール・ハインズEarl Hines(1903―1983)ほか多くのピアニストに強い影響を与えた。
[青木 啓 2018年11月19日]
ニューヨークにおけるビッグ・バンド・ジャズの流行と発展は、やがて、ジャズ全体の進展を促すことになった。1929年10月のウォール街(株式)大暴落に始まった長い不況の間は、甘美で感傷的なポピュラー・ミュージックが流行したが、景気回復の兆しがみえた1935年、ベニー・グッドマン楽団のスウィング・ミュージックと称するビッグ・バンド・ジャズが爆発的な人気をよんだ。主としてフレッチャー・ヘンダーソンの名編曲を用いた演奏は、歯切れのよい明快なスウィング感、白人らしい洗練されたスマートな魅力があり、大衆は、スウィング・ミュージックを、黒人のジャズとは違う音楽、白人による明るくて健全な新しい音楽として大歓迎し、熱狂した。グッドマンを追って、グレン・ミラー、トミー・ドーシーTommy Dorsey(1905―1956)、アーティ・ショーArtie Shaw(1910―2004)、ボブ・クロスビーBob Crosby(1913―1993)らの白人ビッグ・バンドが人気を博し、ここにスウィング・ジャズswing jazzのブームがおき、スウィング時代が現出した。そして、ビッグ・バンドからのピックアップ・メンバーによる小編成楽団(コンボ)、およびレコード吹き込みのための臨時の小編成楽団のジャズ演奏、コンボ・ジャズcombo jazzも盛んに行われるようになる。ソロこそジャズの核であるとの認識が深まったため、スウィングをダンス音楽としてのみならず、鑑賞音楽として楽しもうという傾向を反映したものといえる。
スウィング時代の立役者は白人バンドであったが、黒人バンドも徐々に人気を高めた。注目された黒人バンドの一つにカウント・ベイシー楽団がある。中部ミズーリ州のカンザス・シティで1920年代から活躍していたベニー・モーテン楽団の後身で、ブルース精神とリラックスした気分、簡単な打合せによる編曲(ヘッド・アレンジ)、即興的なリフ(短い楽句の繰り返し)のアンサンブルなど、カンザス・シティ・ジャズ独特の魅力を発揮する。ベイシー楽団は1936年のニューヨーク進出で大評判になった。なお各楽団には専属の歌手がおり、それぞれに人気を競い合うバンド・シンガーの時代でもあった。
[青木 啓 2018年11月19日]
1940年代に入ってもビッグ・バンドを中心とするスウィング・ジャズは幅広い大衆に親しまれたが、1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、楽団員の軍隊応召などの影響で楽団運営は苦しくなり、演奏のマンネリ化もみられ、スウィング・バンドの衰退が始まる。
意欲的な若手ジャズメンはニューヨークのクラブ「ミントンズ・プレイハウス」などでのジャム・セッションにおいて、新しいジャズの実験的な試みを始めた。ギター奏者のチャーリー・クリスチャン、ドラム奏者のケニー・クラークKenny Clarke(1914―1985)をはじめ、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらによってビ・バップbe-bop(単にバップとも称する)という新しい理念のジャズが創造され、スタイル化された。ビ・バップは従来のジャズと異なり、メロディ、ハーモニー、リズムの3要素が改革され、その演奏の表情は強烈で、急速なテンポ、音の飛躍などはエキセントリックともいえる。スタイル化されたのは1944年ごろで、当時はかなりの非難も浴びたが、やがて広く支持されるようになり、モダン・ジャズmodern jazzの母体となる。つまり、ビ・バップの手法に基づくジャズをモダン・ジャズと総称しているのである。ビ・バップ手法を導入した歌手ビリー・エクスタインBilly Eckstine(1914―1993)の楽団、ウッディ・ハーマン楽団などのビッグ・バンドも人気をよび、さらに近代音楽的な手法で白人感覚を示すスタン・ケントン楽団が注目され、ビッグ・バンドのモダン化も進んだ。
1940年代の終わりに近く、第二次世界大戦後の混乱から安定期に入った生活感覚を反映し、またビ・バップの強い刺激感に対して、ビ・バップの理念と手法を消化したうえでの抑制された冷ややかな感じのサウンド、ソロとアンサンブルのバランスのとれたスタイルのジャズが、マイルス・デービス、スタン・ゲッツ、ギル・エバンズらによって生まれ、クール・ジャズcool jazzとよばれた。さらにピアノ奏者レニー・トリスターノとその門下生のアルト・サックス奏者リー・コニッツらが、理知的な内省美をもつクール・スタイルのジャズを創造している。
1950年代になると、西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスで白人による新しいジャズ・スタイルがおこった。1950年に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争による同市の軍需景気と、ハリウッドの映画会社がサウンドトラック録音を重視して譜面に強いミュージシャンを求めたために、ウッディ・ハーマン楽団やスタン・ケントン楽団出身の優秀な白人ジャズメンが多数集まったことに始まる。トランペット奏者ショーティ・ロジャーズShorty Rogers(1924―1994)、バリトンサックス・ピアノ奏者ジェリー・マリガン、ドラム奏者シェリー・マンShelly Manne(1920―1984)らのジャズは、クールではあっても軽快な躍動感をもち、白人的な洗練された感覚の明るい魅力があり、編曲によるデリケートなサウンドとソロの調和にグループ表現としての新鮮なおもしろさがあった。これがウェスト・コースト・ジャズWest coast jazzとよばれるものである。
一方、ニューヨークなど東海岸の黒人ジャズメンは、1950年代なかばから、行き詰まってきたウェスト・コースト派を圧倒する巻き返しをみせた。ビ・バップを成熟させた形の即興アドリブ・ソロを主体とするコンボ・ジャズで、黒人的情感のバイタルな表現、あるいは黒人的なにおいを強く感じさせるファンキーな演奏で、ジャズの主導権を白人から奪回した。これをイースト・コースト・ジャズEast coast jazzとよび、ハード・バップhard bopという別称もある。その代表的人物は、トランペットのマイルス・デービス、クリフォード・ブラウン、ドラムのアート・ブレーキー、マックス・ローチ、ピアノ奏者・作曲家のホレス・シルバー、テナー・サックスのソニー・ロリンズ、ベースおよびピアノ奏者・作曲家チャールズ・ミンガスらである。知的で室内楽的なジャズにユニークな個性を示したピアノ奏者・作曲家ジョン・ルイスJohn Lewis(1920―2001)のモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の存在も忘れられない。
[青木 啓 2018年11月19日]
1950年代末にはハード・バップにも行き詰まりが感じられ始めた。そこに登場したのが黒人アルト・サックス奏者オーネット・コールマンで、彼は既成のジャズ概念を否定し、コード進行と小節および調性の制約から脱して自由な即興演奏に徹し、前衛ジャズ、フリー・ジャズfree jazzの基盤を確立した。またマイルス・デービスはモードmode(旋法または音列)によるジャズを試み、アドリブの可能性を広げた。
1960年代はフリー・ジャズとモード・ジャズ(モーダル・ジャズmodal jazz)によるジャズの激動時代といえる。オーネットはトランペット奏者ドン・チェリーと組んだ活動で賛否の論争を巻き起こし、モードを探究したジョン・コルトレーンはオーネットの影響も受けて独自の新スタイルをつくりだし、多くのジャズメンに影響を与えた。ピアノ奏者セシル・テーラーはヨーロッパ音楽とアフロ・アメリカの伝統を研究し、過激で無調的な即興演奏によって前衛ニュー・ジャズの先駆者の一人となった。自由で強烈な色彩感のあるサックス奏者アルバート・アイラーも見逃せない。こうしたニュー・ジャズはヨーロッパや日本にも共鳴者を生み、新たな展開がみられた。
1960年代末にマイルスはロックのリズムとエレクトリック・サウンドを導入し、LPアルバム「ビッチェズ・ブリュー」を発表。これは1970年代ジャズを示唆したものと評価されている。ジャズはさらに多様化し、マイルス・グループ出身のピアノ奏者ジョー・ザビヌルとサックス奏者ウェイン・ショーターはウェザー・リポート、チック・コリアはリターン・トゥ・フォーエバーというグループを結成、ロックや黒人のソウル・ミュージック、ラテンなど、さまざまな要素を融合した新手法の音楽で幅広い層にアピールし、人気を得た。このようなスタイルはクロスオーバーcrossoverまたはフュージョンfusionとよばれ、多様化と電化楽器の発展が進んだ1970年代に全盛をみた。その一方では、アコースティック・サウンドの再認識、ハード・バップのリバイバル、フリー・ジャズの洗礼を受けたジャズメンの新感覚による活動などもあり、これらも1970年代ジャズの状況として記録されねばなるまい。
[青木 啓 2018年11月19日]
1980年の夏、ニュー・オーリンズ出身で当時18歳のトランペット奏者ウィントン・マルサリスがアート・ブレーキーのバンドに参加して注目された。彼は1982年にバンドから独立後、優れたテクニックとアイデアで、ジャズの伝統を今日に生かす多彩な活動を展開して高い人気と名声を得た。彼の兄であるサックス奏者のブランフォード・マルサリスBranford Marsalis(1960― )やトランペット奏者ロイ・ハーグローブRoy Hargrove(1969―2018)など、ウィントンと同志の若手が台頭、彼らは新伝承派とよばれる。
一方、1960年代にマイルスのバンドにも参加したキーボード奏者のハービー・ハンコックは、シンセサイザーやボコーダー(人の声と楽器音などを電子的に混合、加工する装置)などを駆使して独自のフュージョンを創造したが、1983年にロックイット・バンドを率いて当時流行し始めていたヒップ・ホップを導入したアルバム『フューチャー・ショック』を発表し、爆発的なヒットとなった。この1983年にピアノ奏者キース・ジャレットはベース奏者ゲイリー・ピーコックGary Peacock(1935―2020)、ドラム奏者ジャック・ディジョネットJack DeJohnette(1942― )とスタンダード名曲を演奏するトリオを結成、内外の演奏で大好評を博した。トリオは2000年からオリジナル曲によるフリーの即興演奏も行っている。
1990年代以降、若手逸材ジャズメンの出現が相次ぎ、その活躍が目覚ましい。鋭い感性のアルト・サックス奏者クリス・ポッターChris Potter(1971― )、オーソドックスな演奏のみならず、複雑な変拍子を使った演奏にも創意を発揮するテナーおよびアルト・サックス奏者ジョシュア・レッドマンJoshua Redman(1969― )、さまざまな技法を用いた演奏で構成と展開の妙、叙情美とロマンティシズムの新鮮な魅力をみせるピアノ奏者ブラッド・メルドーBrad Mehldau(1970― )、キューバ出身のラテン・ジャズピアノ奏者ゴンサロ・ルバルカバGonzalo Rubalcaba(1963― )、トランペット奏者のデイブ・ダグラスDave Douglas(1963― )とニュー・オーリンズ生まれのニコラス・ペイトンNicholas Payton(1973― )、オルガン奏者ジョーイ・デフランセスコJoey DeFrancesco(1971―2022)、ビッグ・バンドを率いる女性作曲・編曲者マリア・シュナイダーMaria Schneider(1960― )などが1990年代の代表格といえよう。このように、20世紀初頭にアメリカで誕生したジャズは、いまなお生きている音楽、時代の音楽であり、時代の変化を反映しながら創造と発展の歩みを続けている。
[青木 啓]
楽器で演奏する音楽、つまり器楽であるジャズの特質を応用して人声で歌うのがジャズ・ボーカルである。フィーリング、スウィングするリズム感、創造力を示すインプロビゼーションによるアドリブ、そのフレージングなどが、ジャズを範としたジャズ唱法の条件となる。厳密には、器楽と声楽を同一視できないのでジャズ的ボーカルとすべきだが、一般にジャズ・ボーカルと称し、この唱法に徹した歌手をジャズ歌手、ジャズシンガーとよぶ。
[青木 啓 2018年11月19日]
ジャズ・ボーカルはトランペット奏者ルイ・アームストロングから始まった。彼の歌唱は、彼のトランペット演奏のフレーズをそのまま人声に移した器楽的なもので、歌をスウィングさせるために必要とあらば原メロディを(ときには歌詞も)自由に即興でつくりかえてしまう。ルイはしわがれ声で、美声による訓練された発声という従来の歌手の条件を破り、1926年2月には『ヒービー・ジービーズ』という歌で史上初のスキャットscat(歌詞にかえて意味のない音で即興的に歌うこと)の入ったレコードを録音した。ルイの影響を受けて1920年代末にビング・クロスビーとミルドレッド・ベイリーMildred Bailey(1907―1951)が白人ジャズ歌手の草分けとなり、1933年には最高のジャズ歌手である天才ビリー・ホリデーが初録音して注目された。ついでエラ・フィッツジェラルドが出現。第二次世界大戦中の1942年には、ジャズ唱法もうまいフランク・シナトラがトミー・ドーシー楽団から独立し、幅広い人気を得た。
[青木 啓 2018年11月19日]
1940年代なかばにビ・バップの手法がジャズ・ボーカルに取り入れられ、ビリー・エクスタインBilly Eckstine(1914―1993)とその弟子サラ・ボーンを創始者とするモダン・ジャズ・ボーカルが誕生した。以来、メル・トーメ、アニタ・オデイ、カーメン・マクレエ、ジューン・クリスティJune Christy(1925―1990)、クリス・コナーChris Connor(1927―2009)、ベティ・カーターBetty Carter(1930―1998)らモダンな歌手が活躍。1952年には一番上のパートがメロディを歌うオープン・ハーモニーを使ったモダンなジャズ・コーラスのフォー・フレッシュメンが広く注目され、レコードに残されたジャズ名演に歌詞をつけて歌うキング・プレジャーKing Pleasure(1922―1982)やエディ・ジェファソンEddie Jefferson(1918―1979)が話題になった。この手法はボーカリーズとよばれ、これをコーラスで完成させた3人組ランバート・ヘンドリックス・アンド・ロスLambert, Hendricks & Rossのレコードが1958年に大評判となる。
1960年代には、前衛ジャズ的に声を使うシーラ・ジョーダンSheila Jordan(1928― )、ジーン・リーJeanne Lee(1939―2000)、カーリン・クローグKarin Krog(1937― )ら、アフリカ志向とトータルな音楽性を示すニーナ・シモンNina Simone(1933―2003)、ジャズとリズム・アンド・ブルースを核とするナンシー・ウィルソンNancy Wilson(1937―2018)が注目を集める。1970年代になると、ジャズとフュージョン双方にまたがるD・D・ブリッジウォーターDee Dee Bridgewater(1950― )、アル・ジャロウ、コーラス・グループのマンハッタン・トランスファーManhattan Transfer、ブラジル出身のフローラ・プリムFlora Purim(1942― )らが人気をよぶ。1980年代以降に活躍したジャズ・シンガーとしては、熱烈な個性のある若手ダイアン・シューアDiane Schuur(1953― )、カサンドラ・ウィルソン、声を楽器そのものにするボビー・マクファーリンBobby McFerrin(1950― )、カート・エリングKurt Elling(1967― )、カナダ出身のダイアナ・クラールDiana Krall(1964― )などがあげられる。
[青木 啓]
1910年代なかば(明治末から大正初め)に太平洋航路客船の楽団の日本人演奏者たちが、アメリカで流行していたラグタイム音楽やフォックス・トロットなど新しいダンスの音楽を知り、その演奏を試み始めた。リーダーであるバイオリン奏者の波多野福太郎(1890―1974)は1918年(大正7)に船を離れてハタノ・オーケストラを結成、東京の映画館で無声映画の伴奏をつとめ、休憩時間にアメリカの流行曲も演奏して評判になった。
1920年代に入るとダンスが盛んになり、東京や関西にできたダンスホールの楽団員たちはレコードも参考にしてジャズを研究。1923年にはバイオリン奏者の井田一郎(1894―1972)が、日本最初のプロのジャズ・バンドであるラフィング・スターズを結成している。1928年(昭和3)二村定一(ふたむらていいち)(1900―1948)の歌った『私の青空』『アラビアの唄(うた)』などが大ヒットし、以後、ジャズ・バンドを伴奏に主としてアメリカのポピュラー・ソングを日本語で歌うジャズ・ソングが流行した。そのころ法政大学の渡辺良(1903―1976)、慶応義塾大学の菊地滋弥(きくちしげや)(1903―1976)らの学生ジャズ・バンドも活躍。1929年から日本でもトーキー映画が上映され、映画主題歌のレコード発売も活発となり、ジャズとアメリカのポピュラー音楽はいっそう身近になっていった。
1934年トランペット奏者の南里文雄(なんりふみお)がホット・ペッパーズを結成して人気をよび、ディック・ミネ(1908―1991)の歌う『ダイナ』がヒット。1936年にジャズ歌手の水島早苗(さなえ)(1909―1978)が上海(シャンハイ)から帰国。1930年代末にはダンスホールや劇場でスウィング・ジャズが隆盛したが、1937年からの日中戦争の影響などで1940年10月には全国のダンスホールが閉鎖され、1941年12月の日米開戦で日本のジャズの歩みは中断された。
[青木 啓 2018年11月19日]
1945年(昭和20)8月に終戦、その年の9月には松本伸(しん)(1908―1978)のニュー・パシフィック楽団が活動開始。翌1946年6月に渡辺弘(1912―1988)のスターダスターズが発足した。こうして戦前派の人々を中心に、多くのジャズメンがビ・バップなども学びながら新しい日本のジャズの道を開いていった。1952年に来日したジーン・クルーパ・トリオの影響も大きい。1953年に空前のジャズ・ブームとなり、ジョージ川口(1927―2003)、松本英彦(ひでひこ)(1926―2000)、中村八大(はちだい)、小野満(みつる)(1929―2008)のビッグ・フォーは代表的人気グループになる。1950年代末からロックン・ロールに人気を奪われた形になったが、1960年代後半にはサックスの渡辺貞夫(さだお)、トランペットの日野皓正(てるまさ)、ピアノの山下洋輔ら若手精鋭が台頭、国際的にも高く評価されるジャズを創造し、1965年以降アメリカで活躍するピアノの秋吉敏子(としこ)は同地で1974年に楽団を結成、作・編曲・指揮者として世界的な大物となった。
1980年代に入って、ダイナミックでフレッシュなピアノ奏者小曽根真(おぞねまこと)(1961― )、作曲と編曲も手がけるジャズ歌手で酔狂座オーケストラのリーダーでもある丸山繁雄(1951― )が登場した。また、アメリカのライオネル・ハンプトン楽団のメンバーだったアルト・サックス奏者MALTA(本名・丸田良昭(よしあき)、1949― )が、ジャズとフュージョンでスターになる。1990年代には大型新人が多数出現した。とくにスケールの大きいピアノ奏者大西順子(1967― )、トランペット奏者原朋直(ともなお)(1966― )、テナー・サックス奏者川嶋哲郎(てつろう)(1966― )、ドラム奏者大坂昌彦(1966― )、前衛派でビッグ・バンドのリーダーでもあるピアノ奏者・作曲家の藤井郷子(さとこ)らは国際的にも広く知られた実力者であり、日本のジャズの前進と新たな展開の大きなパワーになっている。
[青木 啓]
『油井正一著『ジャズの歴史物語』(1972・スイング・ジャーナル社)』▽『ヨアヒム・ベーレント著、油井正一訳『ジャズ――ラグタイムからロックまで』(1975・誠文堂新光社)』▽『マーク・C・グリッドリー著、本多俊夫訳『ジャズのスタイルブック――スタイリストたちの名演に迫る』(1984・スイング・ジャーナル社)』▽『ナット・ヘントフ著、志村正雄訳『ジャズ・イズ』新装版(1991・白水社)』▽『フランク・ティロー著、中嶋恒雄訳『ジャズの歴史――その誕生からフリー・ジャズまで』(1993・音楽之友社)』▽『副島輝人著『現代ジャズの潮流』(1994・丸善)』▽『悠雅彦著『ジャズ――進化・解体・再生の歴史』(1998・音楽之友社)』▽『ラングストン・ヒューズ著、木島始訳『ジャズの本』(1998・晶文社)』▽『ロイ・カー著、広瀬真之訳『ジャズ100年史』(1999・バーン・コーポレーション)』▽『デイヴィッド・ペリー著、瀬川純子訳『ジャズ・グレイツ』(2000・アルファベータ)』▽『青木啓・海野弘著『ジャズ・スタンダード100――名曲で読むアメリカ』(新潮文庫)』▽『油井正一著・選曲『Jazz lady's vocal――CDで聞く女性ジャズ・ヴォーカリスト20人の魅力と名曲20』(1990・主婦の友社)』▽『アドリブ編・刊『女性ヴォーカル――THE EXCITING JAZZ BOOKS』(1993)』▽『岩浪洋三著『ジャズ・ヴォーカルの名唱名盤』(2000・立風書房)』▽『季刊ジャズ批評編集部編『女性ジャズ・ヴォーカル入門』(2000・松坂)』▽『村尾陸男著『ジャズ詩大全』全20巻・別巻2(1991~2010・中央アート出版社)』▽『内田晃一著『日本のジャズ史――戦前戦後』(1976・スイング・ジャーナル社)』▽『瀬川昌久著『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(1983・サイマル出版会)』▽『高橋一郎・佐々木守編著『ジャズ旋風――戦後草創期伝説』(1997・三一書房)』▽『奥成達著『みんながジャズに明け暮れた――私家版・日本ジャズ史』(1997・三一書房)』
20世紀初め,アメリカ南部の港町ニューオーリンズの黒人ブラスバンドから生まれた音楽。1920年代を通じて,シカゴ,カンザス・シティ,またニューヨークなどの北部諸都市に伝播し,30年代後半にはスウィング・ミュージックと呼ばれて世界に広まった。第2次世界大戦まではダンス音楽であったが,戦後は鑑賞音楽として独自の発展をとげた。20世紀のクラシック,ポピュラー音楽,さらに他の芸術・文化に与えた影響は,ジャズ自体の発展にもまして重要である。この点は後述する。
ジャズを生んだアメリカの黒人が,西アフリカから強制輸送された奴隷を先祖とすることはよく知られている。奴隷輸送は16世紀初め,労働力を必要としていたハイチ(当時はサント・ドミンゴ),キューバなどのカリブ海諸島や南米ブラジルへ向け開始された。当時,北アメリカの大半は未開拓地であり,開拓がすすみ,奴隷の労働力を必要とするのは,それから約100年後である。ニューオーリンズは19世紀初頭,アメリカの領土として買い入れられる(ルイジアナ購入)まで,フランスとスペインによって交互に統治されていた。このジャズ誕生の地に移植された黒人奴隷の大部分は,スペイン領キューバ,フランス領ハイチなどから購入されたものであった。このことは,ラテン・アメリカ音楽とジャズとの血縁を知るうえで重要である。多くの研究家がジャズと西アフリカの音楽との関連を探ろうとして失敗したのは,ラテン・アメリカ時代の100年を考慮に入れなかったことと,ジャズが著しくヨーロッパ音楽寄りに発展したためであろう。アフリカからの音楽は,キューバでスペイン音楽と混じってアフロ・キューバン音楽を作り出し,フランス領ハイチではシャンソン・クレオールchanson créoleを作った。そしてこれらを通してアメリカへ渡り,ヨーロッパ音楽との出会いによってジャズとなった。
フランスが統治していたニューオーリンズにはクレオールcréoleという白人と黒人の混血人種が存在していた。白人の主人と奴隷女との間に生まれた子どもは,主人の死とともに母子とも解放され,白人と同等の身分を獲得できた。彼らクレオールは商人として成功する者が多く,子弟に高度な教育を受けさせ,フランスへ留学させることも多かった。ニューオーリンズのエリート層を構成し,日常会話にはフランス語が用いられ,特に音楽教育に力が入れられた。一方,南北戦争(1861-65)の結果,奴隷解放令によって奴隷労働の上に貴族的生活を営んできた南部の白人は特権をはぎとられる。彼らの不満は白人同盟の結成(1874)を導き,南部へ入り込んでくる北部人の追放と,黒人の〈分(ぶん)〉を守らせることが企図された。そのとばっちりを受けたのがクレオールである。白人と同等であった身分を奪われ,商いもうまく進まなくなり,白人の手に仕事を奪い返された。1894年にはクレオールもまた黒人同様,人種差別を受けるべきだとする行政条例が公布される。白人社会から締め出されたクレオールは,かつての奴隷と肩を並べて働きに出なければならなくなった。クレオール階級の没落が奴隷解放令とともに始まったのは皮肉である。
1880年から20世紀初めにかけて,ニューオーリンズで演奏されていた音楽は,人種・文化・言語すべての雑多さにおいて〈世界の縮図〉を思わせたこの市の性格を,そのままに反映していた。音楽と市民生活は密着し,市民生活イコール音楽といえるほど,いろいろな編成のブラスバンドがストリート・パレードで練り歩き,町中が音楽にあふれていた。自由市民となった元奴隷たちにとって,この町で音楽を志すことはいい仕事にありつくことでもあった。幸いにも,南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の古楽器が,古道具屋で安く手に入った。元奴隷たちは楽譜も読めなかったので,楽器を力いっぱいに吹きまくるばかりだったが,どのグループにも数人の,クラシック音楽の素養をもったクレオールがいて,できる限りの指導を行った。クレオールの子孫にとって,黒人のブラスバンドで働くことは身を落とすことでもあったが,経済的困窮はしりごみを許さなかった。
黒人たちが始めたブラスバンドには,ふしぎにスウィングするリズムがあった。白人バンドにみられないスウィング演奏はたちまち注目を浴び,仕事の量もふえ,白人バンドにもその演奏はまねられるようになった。やがてブラスバンドのミュージシャンは,そのままのスタイルでホールに雇われ,ダンス音楽を演奏するようになった。これが最初のジャズであり,その演奏スタイルを〈ニューオーリンズ・スタイル〉ないし〈ディキシーランド・スタイルDixieland style〉と呼ぶ。〈ジャズとはニューオーリンズにおいて黒人とヨーロッパ音楽の出会いから生まれた音楽である〉という認識は正しい。しかし人種差別が厳重になったこの町で,黒人と白人が共演できる機会はほとんどなく,ヨーロッパ音楽の教養を深く身につけたクレオールが,実際的な媒介役を果たしたのである。
この音楽には最初〈ジャズ〉という名がなかった。1915年ごろ北部へ出稼ぎに出た二,三の白人バンドは,通常Band from Dixielandと名のっていた。シカゴの〈シラーズ・カフェ〉に出ていたバンドの演奏が最高潮に達したとき,客の一人が“Jass it up!”と声援を送った。jassとはシカゴ暗黒街の俗語で,わいせつな意味をもっていたが,この言葉が気に入ったバンド・リーダーはさっそく取り入れ,Dixie Jass Bandと改名した。Dixielandとは南部一帯をさすあだ名である。
ディキシー時代のジャズを構成した音楽的要素のなかでいちばん目だつのは,ブラスバンドが演奏していた行進曲的要素であるが,ほかに各国民謡,セミ・クラシック,ブルースblues(南部の田舎に生まれた黒人の歌。最初は一定の形式がなかったが,ジャズ発生と同時期に,4小節3段,1コーラス12小節形式を標準とするようになった),ラグタイムragtime(南部の黒人ピアニストがケークウォークcakewalkというダンスのための音楽として作曲したピアノ音楽。19世紀のクラシック・ピアノ曲に準じた形式をもつが,リズムはシンコペートされている。譜面通りに弾くのが作法で,即興性の大きいジャズとは一線を画すが,その原型をなすものの一つ),宗教歌(黒人霊歌,教会歌など),労働歌も構成要素に数えられる。このなかで特に重要なのは,ブルースに使われるブルース音階(長調の3度と7度の音,すなわちミとシが半音ちかく下がる音階)とコード進行(主音→下属音→主音→属音→主音)である。またブルース・ボーカルは,ふつう各段4小節のうち残りの1小節半を〈ブレークbreak〉と呼ぶ余白として残したが,伴奏楽器はここを短いカデンツァで飾った。ブレークはのち,ジャズのソロ・インプロビゼーションへ発展する。
1910-20年に南部から北部へ移動した人口は,白人500万,黒人350万といわれる。農業から工業への目ざましい産業構造の変化が,北部工業都市へ大量の人口移動を促したのである。黒人の多くは,洗練され近寄り難い同胞が住むニューヨークを避け,南部人が群がるシカゴを選んだ。しかも当時シカゴは,大量の黒人労働者を必要としていた。一方ニューオーリンズは,1917年春,アメリカが遅ればせながら第1次世界大戦に参戦すると軍港となり,港町特有の歓楽街も閉鎖され,多くのジャズメンが職を失った。彼らの多くは他に本業をもつアルバイト楽士だったので,本業に専念してこの町にとどまったが,ジャズに一生を託そうとする決意と自信をもった少数のミュージシャンは,大移動とともにシカゴを中心とする北部へ移住した。ジャズメンばかりか南部のブルース歌手も移住し,シカゴをブルース・シティとする基礎がつくられる。シカゴでは黒人居住区がはっきりと定められ,その人口は5年間で2倍にふくれあがり,家賃が高騰した。収入だけでは家賃がまかないきれなくなると,黒人たちは相互扶助運動として〈家賃パーティhouse-rent party〉をおこし,入場料と飲食費から利益をひねり出して家賃の支払にあてた。このパーティではピアノが使われ,打楽器的ブルース・ピアノ奏法〈ブギウギboogie woogie〉が生まれた。
1920年から33年まで施行された禁酒法は,密造酒販売のシンジケートを操るギャングを発生させた。彼らの経営する都会の密造酒場,ボールルームなどで,ジャズは盛んに演奏される。この時期に現れた天才ルイ・アームストロングは,すべての楽器奏者,歌手,編曲家に甚大な影響を与えた。そのなかでベニー・グッドマンは,大不況からようやく上向きに転じた35年,ラジオとレコードを通じて〈スウィング・ブーム〉をまきおこした。演奏そのものはアームストロングが在籍した黒人バンドを率いていたフレッチャー・ヘンダーソンJ.Fletcher Henderson(1897-1952)の編曲をゆずりうけ,白人的なサウンドで演奏したビッグ・バンド・ジャズであったが,彼はジャズという言葉を避け,〈スウィング・ミュージックswing music〉と呼んだ。景気が回復へ向かうなかで,人びとはこれを健康で明朗な,いわば世直し音楽として受け取ったのである。30年代後半から40年代初めを,〈スウィング時代〉と呼ぶ。スウィング時代の人気バンドはすべて白人であった。スウィング・ミュージックそのものはヘンダーソンの編曲によるところが大きく,黒人バンドこそその創始者であったが,黒人が演奏するのは下品で喧騒な〈ジャズ〉,白人がやるのはスマートで健康的な〈スウィング・ミュージック〉という受止め方が,初めて陽のあたる場所へ出たジャズに対する世人の認識であった。
一方,1920~30年代のミズーリ州カンザス・シティを中心とする中西部一帯では,編曲を用いず,よりブルースに根ざした黒人ビッグ・バンド・ジャズが発展していた。当時カンザス・シティは“Big Tom”の異名をとった民主党の悪徳政治家ペンダーガストT.Pendergastの支配下にあり,禁酒法治下にもかかわらず,一種の治外法権的な歓楽都市となっていた。禁酒法廃止,さらにはペンダーガストの逮捕投獄によって歓楽の灯は消え,カウント・ベーシー(W.ベーシー)楽団を筆頭に,この町のバンドは相次いでニューヨークへ移動した。
1941年,日米開戦とともにアメリカは戦時体制に入り,戦時特別税としてクラブやホールでのダンスが高率課税の対象となった。そのためスウィング時代を通してファンを画期的に増していたダンス音楽としてのジャズは,鑑賞音楽への道を歩むことになった。また各種の統制と相次ぐ召集令によって,多人数のメンバーを必要とするビッグ・バンドの維持は困難となり,バンドはコンボcombo(3~8人程度の編成)化した。中西部その他,全米各地から集まったプレーヤーによって,ニューヨークの黒人街ハーレムのクラブでは毎夜ジャム・セッションjam session(任意にグループを組み,即興で演奏しあって腕を比べあう集い)が行われた。そこから互いの創意による新しい演奏スタイル,ビバップbe-bop(略してバップbopともいう)が生まれた。バップは,リズム,メロディ,ハーモニーの3要素に新しい創意を加えたもので,もともとジャズは4拍子の1,3拍目におくアクセントを,2,4拍目にずらして演奏するところから,オフ・ビートoff beat音楽と呼ばれたが,バップは4拍子を感覚的に8分割し,〈1と2と3と4と……〉の〈と〉の部分にアクセントをおいた。これもまた〈オフ・ビート〉と呼ばれ,このリズムの細分化は,フレージングを以前のジャズに比べ多弁なものとした。初顔合せの多いジャム・セッションでは,誰もが知っているブルースやポピュラー・スタンダードのコード進行を使ってアドリブの素材とすることが慣例となった。当時のバップ成長過程は,残念ながらレコードによってたどることができないが,これはアメリカの音楽家労働組合が,放送とジュークボックスによって音楽家への仕事が減少したことへの補償を要求して,42年8月から2年5ヵ月に及ぶレコード吹込み拒否のストライキを実行したためである。ストライキの後に吹き込まれたレコードは,完成したバップであったため,はたしてそれがスウィング・ジャズからの論理的な発展か,新人たちの気まぐれな実験であったのかをめぐって,大きな論議をよぶことになった。論理的な発展という論が大勢を占めたのは,50年代に入ってからである。バップは一人の創意から生まれたものではなく,多くのプレーヤーの創意の合成であったが,ずぬけて巨大な存在であったのはチャーリー・パーカーである。20年代のアームストロングがそうであったように,バップを志すすべてのミュージシャンがパーカーを手本とした。パーカーのよき相棒として知られたディジー・ガレスピーは,天才的で外交性に欠けたパーカーと対照的に,ユーモラスな人柄を生かし,マスコミに登場してひろくバップを喧伝した。
バップが論議をよんでいるさなか,一部ジャズ研究家は,ニューオーリンズから1910年代にジャズをやっていた古老たち--トランペットのバンク・ジョンソンBunk Johnson(1879-1947),クラリネットのジョージ・ルイスGeorge Lewis(1900-68)らを発見してニューヨークにデビューさせた。ニューオーリンズ=ディキシーランド・スタイルは,スウィング時代にジャズ・ファンとなった人びとに,その起源への探求というかたちで関心をよび,世界的にリバイバル・バンドが現れ,注目を集めていた。あらゆる有名雑誌が再発見された古老たちのインタビューや写真を掲載した。しかも一方ではバップというえたいの知れぬニュー・ジャズがおこっており,古老たちの登場は,バップへの反感とジャズの起源への回帰として熱心な支持をうけた。こうしたニューオーリンズ・ジャズの演奏法を模倣するアマチュア・プレーヤーが数多く生まれたが,そのすべてが白人ないし外国人であり,40年代の黒人ミュージシャンのなかから一人としてその後継者が生まれなかったことは注目に値する。40年代アメリカの黒人にとって,20年以上昔の同胞の音楽は,すでに共感の埒外(らちがい)にあったのだ。一般黒人大衆は,カンザス・シティを中心とする中西部の黒人ジャズ・メンがもたらしてニューヨークのハーレムに定着させた,リズム・アンド・ブルース(古典的な田舎のブルースを,より洗練させリズムを強調した現代的ブルース)に共感をおぼえていた。ジャズを志すプレーヤーは,ことごとくバップに向きを変え,古老たちの博物館的ニューオーリンズ・スタイルにはきっぱりと背を向けたのである。
パーカー・コンボのトランペット奏者マイルス・デービスは1948年,バップの革新的要素を,編曲を重視した九重奏団で演奏し,腕くらべ的で統制を欠いたジャム・セッションをグループ表現に高めたのであった。〈モダン・ジャズmodern jazz〉という言葉で呼ばれるようになったのもこのころであった。一方,東のウディ・ハーマンWoodrow(Woody)C.Herman(1913-87),西のスタン・ケントンStanley(Stan)N.Kenton(1912-79)といった白人リーダーは,ともにビッグ・バンドにバップの要素をとりいれて演奏し,若い有能な白人プレーヤーを育成して人気を得た。50年6月,朝鮮戦争の勃発とともにその兵站(へいたん)基地となったロサンゼルスは好況にわいた。映画会社はLPの発明(1948)以来,サウンド・トラック音楽が強力な宣伝力と利潤を生むことに注目した。そしてジャズにもクラシックにも通じた作曲家に委嘱するとともに,譜面に強くジャズにも堪能なミュージシャンをスタジオに抱え,相次いで傘下にレコード会社を設立した。ハーマン,ケントンの楽団員はその要求にぴったりだった。旅から旅への演奏旅行に飽きていたプレーヤーたちは,高給と定住という好条件にバンドを離れてスタジオに入り,余暇を利用して軍需景気にわくロサンゼルス近郊のクラブで,ジャズを演奏しはじめた。マイルス九重奏団のアンサンブルを手本にしながらも,白人的でクールな演奏は〈クール・ジャズcool jazz〉また〈ウェスト・コースト・ジャズWest Coast jazz〉と呼ばれ,ニューヨーク周辺のジャズ界の不況もあって,モダン・ジャズ界の主導権はロサンゼルスに奪われたかのような盛況を呈した。
この時期,忘れてならないのはナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命したヨーロッパ音楽の巨匠の多くが,気候温暖なカリフォルニアに定住し,生活のため大学の教壇に立ったことである。D.ミヨー(ミルズ・カレッジ),A.シェーンベルク(南カリフォルニア大学。のちのカリフォルニア大学ロサンゼルス分校),トッホErnst Toch(1887-1964,オーストリアの作曲家。南カリフォルニア大学)などが,若いアメリカの音楽学徒に与えた影響は大きい。スタン・ケントンは49年から51年にかけて45人編成のオーケストラを率い,〈近代音楽の革新〉を旗印に無調近代音楽の演奏旅行を行って,各地で賞賛を浴びた。こうした傾向は当然ウェスト・コースト・ジャズにも反映し,しばしば近代音楽とジャズの融合がまじめに試みられた。
1950年代後半にいたり,それまで鳴りをひそめていたニューヨークの黒人ジャズが人気を盛り返した。グループ表現という点ではやや無秩序だったバップ・イディオムを,コンボ形式の中で修正し,しかもインプロビゼーションimprovisation(即興演奏,アドリブと同意)を主体としたマイルス・デービス,ソニー・ロリンズ(T.ロリンズ),アート・ブレーキーArt Blakey(1919-90,本名Abdullah Ibn Buhaina),マックス・ローチら黒人によるモダン・ジャズは,〈ハード・バップhard bop〉と呼ばれ,その力強く直截な表現は,ウェスト・コーストの白人プレーヤーによる,近代音楽との融合に傾いた実験的なジャズを圧倒する勢いをみせた。このころからアフリカでは黒人指導者たちによる独立が相次ぎ,アメリカ国内にあっては白人・黒人の共学問題,バス・ボイコット運動,公民権獲得運動など黒人差別撤廃の動きが大きくなった。57年のリトル・ロック事件で,州兵を動員してまで白人の味方をしたアーカンソー州知事フォーバスを罵倒したチャールス・ミンガスの《フォーバスの寓話》や,黒人受難史を描いたローチの《フリーダム・ナウ組曲》は,黒人側のラディカルな抗議として,現れるべくして現れた作品といえる。一時的にもウェスト・コーストの白人に主導権を奪われた黒人たちは,ジャズのバックボーンをなす黒人ブルースや,黒人教会の中でのみ歌われ演奏されるゴスペル・ソングをジャズに盛りこみ,再びジャズ界の主流となった。一聴して黒人臭を感じさせるジャズには,黒人の体臭を意味する〈ファンキーfunky〉という形容詞がつけられ,ニューヨークを中心とするこれら黒人ジャズ・メンやその演奏はまた,ウェスト・コーストに対比して〈イースト・コースト・ジャズEast Coast jazz〉とも呼ばれた。こうしたハード・バップ時代(1956-61ころ)は,モダン・ジャズが成熟期に達した時代である。
1959年,ニューヨークに紹介されたオーネット・コールマンは,それまでのジャズになかった奇妙な音階と強烈なリズムをもつ音楽を演奏し,ジャズに新しい次元をひらいた。オーネットの音楽は,楽典的にみると調子はずれの音の羅列に聞こえ,その重要性が認識されるまでには数年間を要した。だが彼の音楽は素朴で美しく,ヨーロッパ音楽を規律する楽典に準拠しなくとも,人の心をうつ音楽が存在しうることを示したのである。このことは白人世界ばかりでなく,黒人世界のなかで正規の音楽教育を受けた人びとにとって衝撃的なことであった。60年代は,世界中の若者が体制に反抗した〈怒りの10年間〉であった。オーネットの音楽は,伝統に反抗し体制打破の気運に乗った若者にアピールし,特に古典音楽の伝統下にあったヨーロッパのジャズ・メンの絶大な共感を呼んだ。そして彼らは音楽的な束縛をかなぐり捨て,騒音に近い自由な演奏に熱中するようになった。これをフリー・ジャズfree jazzと呼び,オーネットはその開祖とされている。しかし70年代初め,フリー・ジャズはオーネットを遠く離れ,暴走していったのである。
50年代の終り近くには,コード分解によるそれまでのジャズ・インプロビゼーションはマンネリ化の様相をみせ,早晩打開策を必要とするようになっていた。オーネットに触発されておこったフリー・ジャズは,はからずもその一解決策となったが,これとは別にマイルス・デービスが,古い教会旋法を用いてインプロビゼーションをつくり出す方法を考えていた。長調・短調に統一される前に存在したモード(旋法)を用いる利点は,コード進行を極端に単純化すると同時に,より自由なインプロビゼーションを可能にする点にある。マイルスの着想は,ジョン・コルトレーンをはじめ多くのミュージシャンに影響を与え,60年代ジャズの傾向を,〈フリー〉と〈モード〉に大別できるほどにした。なかでも60年代ジャズの巨人コルトレーンは,インド,中東の民族音楽モードを素材にした。こうした各国の民族音楽との結びつきと,フリー・インプロビゼーションという60年代の新傾向は,アメリカを本場としてきたジャズの根本を覆し,ジャズのアメリカ離れを促してヨーロッパや日本のジャズの自立を生む結果となった。
60年代はまた,仕事の減ったアメリカから優れたジャズ・ミュージシャンが,大量にヨーロッパに移住した時代でもある。彼らは各国のジャズ・グループに属したり,ラジオ局のスタジオに籍を置いたりしながら,ヨーロッパ各地で盛大に行われ始めたジャズ・フェスティバルの花形になった。この時期,ヨーロッパのジャズ・シーンは,かつてのウェスト・コーストのように,ジャズの主導権がヨーロッパへ移ったかのような盛況を呈した。しかし70年代半ば近く,フリー・ジャズ旋風が一段落し,主流派(ハード・バップ)がリバイバルし始めるのを機に,これらアメリカン・ミュージシャンは相次いで帰米し,再びニューヨークを世界のジャズのメッカとしたのであった。
1969年マイルス・デービスは《ビッチェズ・ブリューBitches Brew》(CBS)というレコードを発表した。13人のメンバー中,11人までがリズム・セクションという楽器編成から流れ出すこみいった複合リズム,さらにロックなどジャズから派生して発展したポップスからの再影響に加え,電気楽器を駆使したサウンドは,70年代の新しい動き--クロスオーバーcrossoverないしフュージョンfusionの先駆的作品と評価されている。70年代のフュージョン界の主要なリーダーは,そのほとんどがマイルス・バンドの出身者であったことは,マイルスの存在と影響力がなお衰えていないことを示すものであった。70年代から80年代へかけ,ジャズ界はかつてない多様化(あるいは混迷)の様相を呈するようになった。マイルスのグループに在籍し,大きな影響と示唆を与えられたハービー・ハンコックHerbie Hancock(1940- ),ジョー・ザビヌルJosef(Joe)Zawinul(1932-2007),チック・コリアArmand A.(Chick)Corea(1941- 。いずれもキーボード奏者)やウェイン・ショーターWayne Shorter(1933- 。サックス)らは相次いで電気楽器と複合リズムを取り入れたグループ活動を開始した。またマイルス・グループの外側にあって,これに触発された優れた音楽家クインシー・ジョーンズQuincy D.Jones(1933- )は,リズムを中核とした演奏に新しい方向を見いだし,のち〈ブラック・コンテンポラリーblack contemporary music〉と呼ばれる黒人色の強いポピュラー音楽を開拓した。一括してフュージョンと呼ばれたこれらの新しい〈ジャズ〉は,黒人のリズム感覚を大幅に取り入れ,8ビート,16ビートといったリズムを中心に,電気楽器とアコースティック(非電化)楽器のブレンドによって,ひろくアピールしたが,よほどの新機軸がない限りマンネリ化は避けられない。これをジャズの低俗化とみるミュージシャンやファンは,モダン・ジャズが成熟の極に達した50年代末から60年代初めのスタイルを,この音楽の古典として信奉しつづけている。
ジャズを歴史や世相とともに生きてきた音楽とみるならば,男ざかり女ざかりの時期はとうに過ぎたといえるかもしれない。しかしジャズは,世界が続く限り人間社会の動きに密着して生き続ける音楽と認識する方が,より至当と思われるのである。
20世紀になって生まれた新しいダンス・ステップにフォックストロットがある。ジャズで踊るために生まれた4/4拍子のステップで,1910年代の半ばアメリカで流行し,直ちにヨーロッパへも伝えられ,これによってジャズ・バンドの渡欧もさかんになった。スイスの指揮者アンセルメは,19年ウィル・マリオン・クックWill Marion Cookの黒人ダンス・バンドで,シドニー・ベシェCidney Bechet(1897-1959)のクラリネットを聞いた感動を《レビュー・ロマンデ》に寄稿,この一文は世界最初のジャズ評論となった。ベルギーの弁護士で詩人のロベール・ゴファンRobert Goffinの著書《ジャズの辺境》(1932),フランスの評論家ユーグ・パナシエHugues Panassiéの著《ホット・ジャズ》(1934。1936英訳出版)は,最初のジャズ鑑賞の手引書であり,ジャズの本場アメリカで初めて本格的なジャズ書《ジャズメン》が出版されるのは39年になってからのことである。
アメリカで下層階級の低俗音楽として無視されてきたジャズを芸術音楽に取り入れる動きは,ヨーロッパからおこった。当時の若いフランスの作曲家たちにとって,マーラー,シュトラウス,R.ワーグナーといったドイツ作曲家のシンフォニーは度を超した仰々しいものと受け取られ,彼らはシンフォニーを避けて描写風短編やバレエ音楽のかたちで,よりリズミックで淡白なスタイルを目ざしていた。ジャン・コクトーが主唱した前衛芸術運動は,エリック・サティの影響をうけ,〈六人組〉と呼ばれた新鋭作曲家G.オーリック,L.E.デュレー,オネゲル,ミヨー,プーランク,G.タイユフェールの精神的支柱となっていた。当然コクトーのジャズへの心酔は,彼らにも影響を与えずにおかなかった。1918年,ストラビンスキーは《ラグタイム》を,翌年サティは《パレード》を書く。ともにジャズの影響をうけたとされる作品だが,1920年以前のこれらの作品は,実際はジャズを形成した要素のひとつであるラグタイムの影響をうけたものである。したがって後のジャズやブルースにみられる,より世俗的な内容や,ボーカルを楽器に移しかえたような奏法はみられない。それでもオーリックの《ニューヨークよさらば》,ミヨーの《キャラメル・ムー》は,ヨーロッパ楽界にとって革新的な作品であった。
22年,初めてアメリカに旅したミヨーは,はじめ白人ダンス・バンドの演奏に目を奪われたが,ハーレムの黒人バンドを聞くに及んで大きなカルチャー・ショックをうける。ミヨーは手に入るだけのレース・レコードrace record(黒人向けの廉価盤。黒人大衆音楽の代名詞ともなったが,第2次大戦後は差別的なraceをやめ,黒人大衆音楽はリズム・アンド・ブルースと呼ばれる)とポータブル・プレーヤーを持ち帰り,ジャズ・イディオムを用いた最初の作とされるバレエ曲《世界の創造La création du monde》(1923)を書いた。ジャズに熱狂していたコクトーやオーリック,ミヨーらの熱がやがてさめだしたころ,ラベルがまじめにジャズを研究し始める。彼の《バイオリン・ソナタ》(1927)の第2楽章はブルースであった。オペラ《子供と魔法》(1925)が,ジャズの影響をうけたラベルの初の作品とされるが,むしろこれはラグタイムに影響されたもので,《バイオリン・ソナタ》こそジャズと正面から取り組んだ最初の作品であった。一方,ラベルとドビュッシーはまた,最もジャズに影響を与えたヨーロッパの音楽家でもあった。それは彼らの作品の多くが,ピアノのためのものであったことによるところが大きい。彼らが試みたハーモニーの近代化は,即興性と流動性の極限を追求するジャズ・プレーヤーが探し求めていたものであった。ビックス・バイダーベック,デューク・エリントン,アート・テイタム,そしてジョージ・ガーシュウィンの作品には,その影響がよく表れている。
イギリス王室は早くから黒人の音楽・芸能に興味を抱き,すでに1850年代,ビクトリア女王は〈ダンスの王様たち〉と呼ばれたグループ〈ジュバ〉を王室に招いている。黒人芸人バート・ウィリアムスは第1次世界大戦前に,王室でケークウォークを披露したし,1919年には,ジャズをヨーロッパに紹介したW.マリオン・クックの黒人バンドも,御前演奏を行っている。こうした環境のもとで,のちにエドワード8世となる皇太子ウィンザー公は,少年時代からジャズ・ドラムをたしなみ,しばしば訪英したジャズ・バンドと共演さえした。弟のヨーク公(のちのジョージ6世。エリザベス2世の父)ともども,デューク・エリントンの全レコードを集めていたほどのファンであった。イギリスの国民は,王子たちの愛するジャズを共に愛し,30年代の大不況のさなか,イギリス市場に向けてのジャズ・レコードだけが,倒産騒ぎのなかのアメリカで製作を続けたのである。
日本でも後述するように,華族や上流階級の子弟の間で,いちはやくジャズが浸透したが,各国でジャズは上流階級から伝播していった。この事実は,ジャズを最下層階級の低級芸能としてのみ認識し続けたアメリカが,他国では芸術音楽と考えられたジャズの優秀さに,最も遅く気づいたことを傍証する。実際,ベニー・グッドマンのスウィング・バンドが全米にラジオ中継された1930年代半ばになって,アメリカ国民の多くは初めてスウィング・ミュージックの存在に気づいたのであった。しかもそれを黒人からおこったジャズとは別のものと考えていたことは,スウィング時代の人気バンドが,ことごとく白人であったことによっても明らかである。もちろん早くから黒人ジャズの重要性に気づき,耳を傾けていた白人知識層も少なくなかった。特にジョージ・ガーシュウィンを筆頭とするポピュラー作曲家は,ジャズの技法を自作に取り入れた。ガーシュウィンの《ラプソディ・イン・ブルー》がその所産であることは明らかだが,黒人オペラ《ポーギーとベス》は,サウス・カロライナ州チャールストン付近に長期滞在して,黒人の音楽と生活を観察したフィールド・ワークの成果といえる。
ジャズが,ティン・パン・アリーTin Pan Alleyと総称されるアメリカの歌謡界に及ぼした影響は,はかり知れぬものがある。また1940年代中ごろ,ハーレムから現れたリズム・アンド・ブルースは,かつての悲しい歌ではなく,リズムをきかせ,冷笑的に現代を歌って新しい黒人の大衆音楽となった。50年代半ばには,白人のカントリー・ミュージックと黒人のリズム・アンド・ブルースが合成されてロックンロールrock'n rollが生まれる。さらにカントリー歌手エルビス・プレスリーが,よりカントリーの要素を強めてロカビリーrockabilly(rockとhill-billyの合成語。ヒルビリーはカントリー・ミュージックないしその泥臭いものをいう)をつくり出し,黒人世界よりもはるかに広い聴衆を獲得することになる。一方60年代には,伝統的に黒人音楽に親近感を抱いてきたイギリスから,ビートルズ,ローリング・ストーンズといったグループが生まれ,プレスリーの影響を強くうけながらも,リズム・アンド・ブルースを基盤に世界的な人気者となった。60年代半ば,ジョン・コルトレーンの音楽に刺激されて,アメリカ西海岸ではサイケデリック・ミュージックpsychedelic musicがおこり(サイケデリック),ロックと結びついてハード・ロックhard rock,プログレッシブ・ロックprogressive rockとなり,ジャズをはるかに凌ぐ絶大な人気を得た。
1960年代まで〈リズム・アンド・ブルースは黒人の,ロックは白人のもの〉といわれ,ポピュラー音楽界は,圧倒的に白人グループの天下であったが,ロック・ギタリスト,ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix(1942-70)が登場した頃から,音楽界での白黒の区別は消えた。しかし60年代に本格化した黒人の自覚や〈ブラック・イズ・ビューティフル〉という思想が音楽界にも浸透し,ダンスは黒人オリジンの,腕を組まないリズム・ダンスが主流となり,マイルス・デービスの《ビッチェズ・ブリュー》を出発点とするフュージョン,そしてブラック・コンテンポラリーが生まれた。まさに60年代後半以降のポピュラー音楽界は,ブラック・カルチャーによって制覇されたのである。このようにみると,ジャズは20世紀に発生したすべてのポピュラー音楽の源であり,大木の幹であることがわかる。そればかりでなく,1920年代はじめには革新的なものを待ち望んでいたパリの音楽界をもゆるがした。またジャズ・イディオムを作品に取り入れたミヨーが,のちにナチスに追われてカリフォルニアに移り,ヨーロッパ近代音楽をウェスト・コーストのジャズ・メンに教育したことが象徴するように,各国間,各芸術間の相互交流の度合いも考慮しなければ,当然,ジャズの本質は解明し得ないのである。
1912年アメリカ航路の客船地洋丸は,初めて日本人の5人編成バンドを採用した。ジャズ発生以前のことで,歌劇の序曲やカドリール,ケークウォークといった曲が演奏されていたらしい。このバンドはアメリカでサイレント映画の伴奏法を学び,19年に船を下りて映画館バンドに,21年には横浜の鶴見花月園ダンスホール専属バンドとなった。そのころダンス音楽の主流はフォックス・トロットとなる。一方,19-20年に東京品川の益田男爵邸で,5人の兄弟が演奏を録音機に吹き込んではアメリカ渡来のジャズ・レコードと比較して楽しんでいたが,日本のジャズ・プレーヤーの供給源の一つである学生バンドは,このあたりから始まった。しかし23年9月の関東大震災は,ダンスとジャズの中心を阪神地方へ移す。その阪神地方でも,27年大阪府がダンスホールを全面的に禁止し,ホールは生駒や尼崎など近県に移った。そのため有能なジャズ・メンは続々東上して,未熟な東京の学生アマチュア・バンドを刺激した。
〈ジャズ〉という言葉が普及するのは,28年〈ジャズ・ソング〉という分類で世に出た《私の青空》《アラビアの唄》などのレコードがヒットしてからのことである。当時ヨーロッパ諸国や日本の租界があった国際都市上海では,すでにアメリカのジャズ・メンが演奏していたが,日本のバンド・メンにとって,〈上海帰り〉が尊敬の的となり,上海へ渡航する者がふえていた。またアメリカ領であったフィリピンから,すぐれたプレーヤーが来日定住して,ジャズ演奏の水準を向上させた。こうした素地の上に36年,アメリカのスウィング・ブームは直ちに日本へ伝播し,すべてのバンドがその模倣によって人気を得る。しかしまもなく日米関係の悪化とともに,40年にはダンスホールが閉鎖され,翌41年末からの太平洋戦争下では,ジャズは敵性音楽として禁止された。戦後,占領軍とともに再びもたらされたジャズは,新しいアメリカ文化の象徴として脚光を浴び,52年の〈ジャズ・ブーム〉を招来した。ただこのブームの本質は,英語で歌う歌手を中心とした〈ポピュラー・ソング・ブーム〉といってよく,数年後にはロカビリー,やがてロックがこれにかわった。
日本でのジャズの初期からこの頃までを通観していえるのは,ジャズが黒人から始まった音楽であったにもかかわらず,アメリカの〈白人文化〉として迎え入れられてきたということである。ディキシー→ポール・ホワイトマン風シンフォニック・ジャズ→グッドマンのスウィング・ブーム,そしてウェスト・コースト・ジャズという白人中心の流れのなかで,白人バンドに加わった黒人たち(T. ウィルソン,L. ハンプトンら)は別として,黒人バンドや黒人プレーヤーは一般に重要視されなかった。〈ジャズ・ブーム〉時代にも人気を得たのは,白人グループを模倣したバンドやプレーヤーであった。しかしその陰に,貧苦に耐えながらチャーリー・パーカーやバド・パウエルなど黒人モダニストのレコードに耳を傾けて勉強する,守安祥太郎(1924-55),龝(秋)吉(あきよし)敏子Toshiko Akiyoshi Tabackin(1929-2000)を筆頭とする一群のアングラ・ミュージシャンがいた。その意味で1961年1月,黒人ドラマー,アート・ブレーキー率いるジャズ・メッセンジャーズJazz Messengersの来日公演が知識層に与えたカルチャー・ショックは重要である。黒人ルーツとしてのジャズがあらためて見直され,地道に黒人バップ,ハード・バップを学んできた宮沢昭(1928-2000。テナーサックス,フルート),渡辺貞夫(1933- 。アルトサックス,フルート,ソプラノサックス)などのミュージシャンたちが,陽のあたる場所に出た。そのころはまだ,有名プレーヤーの模倣をもっぱらとしていた日本のジャズメンたちではあったが,その後20年の研鑽によって,テクニックの向上はむろんのこと,欧米人にみられぬ独特の感性に基づくジャズをつくりあげ,ジャズ・ナショナリズムを確立したのであった。世界に一流として通る日本人ミュージシャンも,いま続々輩出しつつある。
執筆者:油井 正一
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アメリカの南部の都市ニューオーリンズで1900年頃に始まったシンコペーションと即興演奏を特色とするアメリカ黒人の音楽スタイル。黒人ミュージシャンがシカゴ,ニューヨークに移住し,北部の都会的文化の刺激を受けるとともに芸術的に開花した。1920年代には,ジャズは新しい自由な都会生活を求める若い白人都会人たちの間で新鮮なダンス音楽として人気を博し,白人のジャズ・ミュージシャンも登場して,アメリカの代表的な音楽となった。第二次世界大戦後ジャズはしだいにダンス音楽から離れ,チャーリー・パーカー,マイルス・デーヴィス,ジョン・コルトレーンらにより高度に洗練された芸術の域に高められた。
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…最近のシャンソン界では,アメリカのポピュラー・ソングがシャンソンにアレンジされて流行する現象がかなりある。その反対にアメリカでシャンソンがジャズ化されてもてはやされる場合も多い。
[種類]
シャンソンを歌手の種類とむすびつけて分類すると,つぎのいくつかに大別されるが,戦後の特色の一つとして,多くの歌手がこの分類のどれかを兼ねている。…
… 戦前,戦中の厳しい統制と弾圧がなくなったことによって解放感は大きく,流行歌では並木路子の《リンゴの唄》(1945)や笠置シヅ子の《東京ブギウギ》が大流行した。また進駐軍放送(WVTR,のちFENと改称)から流れる音楽(とくにジャズ)が与えた影響も大きかった。そして,文学,美術,演劇,映画などあらゆる分野で活発な活動が再開された。…
…標準的なブルースの定型は,A A Bの3行から成る詩を12小節に収め,各行ごとに後半でギターが歌の間に割り込む形になっている。そのギターの即興的な入り方が,即興音楽としてのジャズを生む母体になったとする学者もおり,ブルースがジャズの基盤の一つであったことはまちがいない。ミとシ(さらにソも)が,ときにブルー・ノートblue noteと呼ばれる低めの音になることに黒人音楽の特質を示す音階と和声構造はジャズの重要な素材となっている。…
…
[アメリカのポピュラー音楽]
アメリカがポピュラー音楽の一つの中心地であることは広く認められているとおりだが,この国はかつて南部に多数の黒人奴隷を抱えていた特殊事情により,先進国型と植民地型の両方のポピュラー音楽をもつこととなる。前者は,ニューヨークの音楽業界が資本主義的生産様式に従って作り出すポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル(ミュージカル),つまりアメリカでよく使われる言葉でいえば〈メーンストリーム(主流)〉音楽であり,後者は,ローカルなセミプロ的ミュージシャンが民族的基盤から生み出したブルース,ラグタイム,ジャズ,リズム・アンド・ブルース,ロックンロールなどである。上記の2種は,白人系音楽と黒人系音楽にそれぞれ当てはまるものではない。…
※「ジャズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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