日本大百科全書(ニッポニカ) 「多紀元悳」の意味・わかりやすい解説
多紀元悳
たきげんとく
(1732―1801)
江戸時代の漢方医。多紀元孝(もとたか)(1695―1766)の五男で、多紀家6代目。名を元悳(「もとのり」とも読み、元徳とも書く)、字(あざな)は仲明、通称は安元また文恭、藍渓(らんけい)と号した。父業を継ぎ、安永(あんえい)年間(1772~1781)侍医法眼に、1788年(天明8)法印に進み、永寿院の号を賜り、11代将軍徳川家斉(いえなり)の侍医御匙(おさじ)となった。1791年(寛政3)、火災焼失(1772)した私学躋寿館(せいじゅかん)を再建して官立の医学館とし、その規模を拡大したが、その際、私財をなげうって無一物となり、自宅の修理もできず、雨の日は傘をさして食事をしたという。1791年には仁和(にんな)寺の『医心方(いしんほう)』を謄写して奉上し、また『太平聖恵方』を写して献上した。享和(きょうわ)元年5月10日没。著書に『広恵済急方(こうけいさいきゅうほう)』『医家初訓』『医学平言』『養生大意』などがある。
[矢数道明]