江戸時代の漢方医学校。1765年(明和2)多紀元孝(たきもとたか)が、私財を投じて私学躋寿館(せいじゅかん)と称して発足、元孝は教育課程を創案して『医学館経営記』『百日教育記』にまとめ、子弟の育成にあたった。躋寿館は1772年(安永1)江戸の大火で類焼し、元孝の子元悳(げんとく)は1791年(寛政3)第11代将軍徳川家斉(いえなり)の援助を得て官立とし、名を医学館と改めた。以来その子元簡(もとやす)、元胤(もとたね)、元堅(もとかた)、元昕(もとあき)累代医学館督事として運営にあたり、考証学派としての医育事業と、『聖済総録(せいざいそうろく)』『千金方(せんきんほう)』『医心方(いしんほう)』などの復刻事業、また代々多くの著述を刊行し、日本漢方医学の学術書の集大成を行った。その成果は今日、中国においても高く評価されている。
[矢数道明]
江戸幕府の官医養成のための医学校。同様の名称は各藩にもみられる。前身は幕府奥医師多紀氏の私営になる躋寿館(せいじゆかん)で,1765年(明和2)5月多紀元孝が神田佐久間町の司天台(天文台)旧地に設置,数度罹災したが,多紀家代々の努力によって発展した。84年(天明4)には100日間医生を学舎に寄宿教育する百日教育の法という独特の法を実施,医案会,疑問会,薬品会等を行うなどして評判を高め,多くの医生を集めた。91年(寛政3)10月幕府直轄の医学教育機関となり医学館と改称,官医とその子弟の修業の場となって学舎を増築,教授陣の充実がはかられた。1806年(文化3)火災によって下谷新橋通りに移転した。蘭方の隆盛にともない,49年(嘉永2)に官医の蘭方医学修学禁止令を布告し,医書出版の検閲機関ともなって旧医学擁護の牙城となった。68年幕府の崩壊に際し,医学所とともに東京府,軍務官等所管と数転の後,翌69年大学校所管となった。なお医学館の業績として医書校刊事業があり,《聖済総録》《千金方》《医心方》など,古典籍を世に送った。
執筆者:宗田 一
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江戸幕府の医学校。幕府奥医師多紀元孝(たきげんこう)が1765年(明和2)神田佐久間町に開設した私営の躋寿(せいじゅ)館がその前身。91年(寛政3)幕府がこれを医学館と改称して直轄の官医養成機関とし,多紀氏を代々督事とした。1806年(文化3)火災にあい向柳原新橋(あたらしばし)通に移転。幕末まで漢方医学教育・研究と医書の収集・校刊・検閲などを行い,医学界の拠点となった。68年(明治元)幕府崩壊後,種痘館と改称,翌年大学校(のちの東京大学)の所管となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…多紀家は,《医心方》の編者丹波康頼の子孫で,代々京都で医業をおこなってきたが,江戸幕府が開かれてから江戸に移住した。この塾は,1791年(寛政3)には幕府立となり,医学館と改称した。しかしその長は,やはり多紀家のものがあたった。…
※「医学館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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