多部田村(読み)たべたむら

日本歴史地名大系 「多部田村」の解説

多部田村
たべたむら

[現在地名]馬頭町盛泉もりいずみ

谷川やかわ村の南東にあり、おもな集落武茂むも川支流盛谷もりや川の流域に発達。東方常陸国境境明神さかいのみようじん峠を越え常陸国へ向かう東西路が通る。古くは谷川村と一村であったといわれる(水府志料)。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)によれば高四三〇石余。同二一年の知行割郷帳(水戸彰考館文庫蔵)では望月宗三郎ら五名の給地。慶安郷帳では田高三六九石余・畑高二六三石余、うち寺社領一石余。宝永五年(一七〇七)、前年の富士山大噴火に伴う砂除金一二両二分が課せられた(「砂除金納覚」大金重徳文書)。同年には百姓家数六一、水呑家数一三(「人別等書出」同文書)、人数三二八、馬五八(「人馬数改書上帳」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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