大仏供庄(読み)だいぶくのしよう

日本歴史地名大系 「大仏供庄」の解説

大仏供庄
だいぶくのしよう

興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の十市東郷に「大仏供庄三十町 不輸免田畠一町九反 公田畠廿八丁一反」とある。不輸免田畠の内訳条里(括弧内は坪数)は木工寮田五反が二一条二里(一)、現高市郡明日香村にあった川原寺寺田六反半が二四条七里(三)、無主位田三反が二三条三里(一)、春鳥寺(現奈良市か)寺田四反半が二六条六里(一)である。公田畠の条里は記述に多少の混乱がみられるがおおむね二〇―二六条の一―九里(六七)である。

右のほか、同帳には城上しきのかみ郡にも「大仏供庄廿町 不輸田畠二町九反 公田畠十七町一反」とみえ、これも興福寺雑役免田である。不輸田畠の内訳と条里は主殿寮田一町六反が二二条一里(二)、大神神社田四反が二二条二里(一)、川原寺寺田七反が二二条三里(二)、現大字茅原ちはらにあったと考えられる大井寺寺田二反が上二二条五里(一)である。公田畠の条里は二二条三里(四)・四里(四)・五里(一)、二一条二里(二)・三里(五)、二二条一里(二)・二里(六)・三里(八)、上二三条五里(三)、下二四条三里(四、この四つの坪は楊本・四川原・九楊本・十坪)である。これらによると大仏供庄はきわめて散在性の強い荘園と考えられるが、十市東郷分は現橿原かしはら太田市おだいち町・東竹田ひがしたけだ町・常盤ときわ(二一―二三条三・四里)辺りと現桜井市大字大福・西之宮にしのみや吉備きび(二四・二五条五里)辺りとさらに同桜井・たに(二四条七里)辺りに比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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