多武峯寺(読み)とうのみねでら

日本歴史地名大系 「多武峯寺」の解説

多武峯寺
とうのみねでら

[現在地名]桜井市大字多武峰

多武峯の御破裂ごはれつ山南にあった寺で、明治維新後に談山たんざん神社となった。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔創建〕

「多武峯縁起」や護国寺本「諸寺縁起集」などによると、天智天皇八年に没した藤原鎌足は摂津国阿威あい山に葬られたが、長男定慧が唐より帰朝後に多武峯に移葬したことに始まるという。定慧は唐の清涼山宝池院の塔婆を模して十三重塔婆を造立し、鎌足の遺骸をその底に安置、のち塔の南に三間四面の堂を建て、妙楽みようらく寺と号した。さらに大宝元年(七〇一)に塔の東に方三丈の聖霊しようりよう院が建立され、鎌足の木像を祀った。これらを総称して多武峯寺といい、単に多武峯とも称する。また鎌足の冠位にちなんで大織冠たいしよつかんともよばれる。なお多武峯寺では塔婆の信仰を中心とする妙楽寺と、木像を祀る聖霊院とが相対立するようになったので、延長四年(九二六)に惣社が設けられ、談峰権現の勅号が与えられたが、これ以降仏教的性格と神道的性格が混在するようになった。

〔鎌足墓〕

鎌足の墓については「三代実録」天安二年(八五八)一二月九日条に「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓在大和国十市郡」とみえるが、「延喜式」諸陵寮には「多武岑墓贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣」とあり、鎌足の子不比等(淡海公)の墓としている。鎌足の初葬地とみられていた阿武山あぶやま古墳(現大阪府高槻市)では、昭和九年(一九三四)の調査により金糸をまとったとみられる六〇歳ぐらいの男の人骨が安置された夾紵棺が確認されていた。昭和六二年(一九八七)に本格的な発掘調査を行ったところ、玉枕をしき、金糸の衣をまとった男性の遺骸と冠帽などが確認された。遺骨には鎌足の死因となった落馬を物語る形跡があり、冠帽を大織冠とみて阿武山古墳を鎌足墓とする説が有力となっている。なお御破裂山には多武峯墓とされる小円墳があり、天下の異変にはこの山が鳴動し、鎌足の木像が破裂するといわれる。昌泰元年(八九八)の木像破裂(大織冠神像破裂記)をはじめ慶長一二年(一六〇七)に至るまで三五回の破裂・鳴動があり、慶長の鳴動では全山の松がことごとく裂けたと伝えられる。

〔四至・堂宇・末寺〕

建久八年(一一九七)の「多武峯略記」によれば、貞観六年(八六四)に多武峯一山の四至が大和国司らによって「限東椋橋大岑、堀越、都子尾、限南吉野、垣娥野岑、限西弾琴尾并志波尾、弾琴谷、限北阿由谷、鷹取岑」などと定められ、おおむね近世の多武峯山とうのみねやま郷にあたるものと考えられるが、近隣の農民に蚕食されたため、安和二年(九六九)一一月一日に旧の四至に復すべしとの官符が出された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の多武峯寺の言及

【談山神社】より

…669年(天智8)没した鎌足は摂津国阿(安)威山(現,大阪府茨木市)に葬られたが,入唐中の長男定慧(恵)が帰朝後,弟の不比等と相談して多武峰に改葬,十三重塔を建てた。ついで堂を建て妙楽寺と称したのを草創とし,701年(大宝1)近江の彫匠高男丸の造った鎌足の木像を安置する殿舎を建て,聖霊院と号し,両者を多武峯寺と総称した。以後藤原氏一門のみならず朝野の崇敬をうけたが,妙楽寺と聖霊院の対立を防ぐため,926年(延長4)醍醐天皇より談峰権現の神号を,のち後花園天皇より談山明神の神号を賜った。…

【多武峰】より

…619m)という竜門山地中部のひとつの山の名だが,その南麓一帯をいう。また多武峯寺の略称。 《日本書紀》斉明2年是歳条に〈田身嶺(たむのみね)に,冠らしむるに周(めぐ)れる垣を以てす。…

※「多武峯寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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