日本歴史地名大系 「多武峯寺」の解説
多武峯寺
とうのみねでら
多武峯の
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
〔創建〕
「多武峯縁起」や護国寺本「諸寺縁起集」などによると、天智天皇八年に没した藤原鎌足は摂津国
〔鎌足墓〕
鎌足の墓については「三代実録」天安二年(八五八)一二月九日条に「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足多武峯墓在大和国十市郡」とみえるが、「延喜式」諸陵寮には「多武岑墓贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣」とあり、鎌足の子不比等(淡海公)の墓としている。鎌足の初葬地とみられていた
〔四至・堂宇・末寺〕
建久八年(一一九七)の「多武峯略記」によれば、貞観六年(八六四)に多武峯一山の四至が大和国司らによって「限東椋橋大岑、堀越、都子尾、限南吉野、垣娥野岑、限西弾琴尾并志波尾、弾琴谷、限北阿由谷、鷹取岑」などと定められ、おおむね近世の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報