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大原左金吾 おおはら さきんご

朝日日本歴史人物事典の解説

大原左金吾

没年:文化7.5.18(1810.6.19)
生年:宝暦11?(1761)
江戸後期の経世家。名は翼,字は雲卿,通称観次(貫治,寛治)のち左金吾。号は呑響または墨斎。陸奥国東山大原村の人。青年時までの経歴は不詳。江戸に出て井上金峨に就く。天明3(1783)年より翌年にかけ蝦夷松前に到り,松前藩家老蠣崎波響と相識る。京に出て仁和寺宮深仁法親王に寵遇され,画家として活躍。寛政7(1795)年松前藩主の父松前道広より藩主幸広の文武の師として招聘される。翌年英船の蝦夷地虻田入港騒ぎをめぐって藩の政策に不満を持ち,同地を去り水戸に到り,相識の立原翠軒を通し幕府に対し,松前道広に外夷内通の志ありと述べ,松前上知の原因をなした。その後大原への毀誉は分かれた。<著作>『地北寓談』『北地危言』<参考文献>大友喜作『北門叢書』3巻,森銑三「大原左金吾」(『近世文芸史研究』),中村真一郎『蠣崎波響の生涯』

(沼田哲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大原左金吾
おおはらさきんご
(?―1810)

江戸後期の文人。宝暦(ほうれき)10年(1760)ころ陸奥(むつ)国磐井(いわい)郡大原村(岩手県一関(いちのせき)市大東(だいとう)町)に生まれる。名は翼、号は呑響(どんきょう)、墨斎など。左金吾は通称である。松前(まつまえ)藩に招かれ、1795年(寛政7)より文武を教授する。しかし、藩の実権を握っていた前藩主道広(みちひろ)にロシア内通の疑いをもち、翌年松前を去り、松前藩の内情を記した『地北寓談(ちほくぐうだん)』と、北辺防備の方策を論じた『北地危言(ほくちきげん)』を著し、幕府要路に呈上した。ロシア内通の嫌疑は事実に反していたが、これを一つの契機に北辺防備に対する関心が高まり、幕府は99年東蝦夷地(えぞち)を仮上知(かりじょうち)し、その直接経営に着手した。晩年は京都で文人としての生活を送り文化(ぶんか)7年5月18日病没。[小林真人]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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