朝日日本歴史人物事典 「大原左金吾」の解説
大原左金吾
生年:宝暦11?(1761)
江戸後期の経世家。名は翼,字は雲卿,通称観次(貫治,寛治)のち左金吾。号は呑響または墨斎。陸奥国東山大原村の人。青年時までの経歴は不詳。江戸に出て井上金峨に就く。天明3(1783)年より翌年にかけ蝦夷松前に到り,松前藩家老蠣崎波響と相識る。京に出て仁和寺宮深仁法親王に寵遇され,画家として活躍。寛政7(1795)年松前藩主の父松前道広より藩主幸広の文武の師として招聘される。翌年英船の蝦夷地虻田入港騒ぎをめぐって藩の政策に不満を持ち,同地を去り水戸に到り,相識の立原翠軒を通し幕府に対し,松前道広に外夷内通の志ありと述べ,松前上知の原因をなした。その後大原への毀誉は分かれた。<著作>『地北寓談』『北地危言』<参考文献>大友喜作『北門叢書』3巻,森銑三「大原左金吾」(『近世文芸史研究』),中村真一郎『蠣崎波響の生涯』
(沼田哲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報