日本大百科全書(ニッポニカ) 「大原左金吾」の意味・わかりやすい解説
大原左金吾
おおはらさきんご
(?―1810)
江戸後期の文人。宝暦(ほうれき)10年(1760)ころ陸奥(むつ)国磐井(いわい)郡大原村(岩手県一関(いちのせき)市大東(だいとう)町)に生まれる。名は翼、号は呑響(どんきょう)、墨斎など。左金吾は通称である。松前(まつまえ)藩に招かれ、1795年(寛政7)より文武を教授する。しかし、藩の実権を握っていた前藩主道広(みちひろ)にロシア内通の疑いをもち、翌年松前を去り、松前藩の内情を記した『地北寓談(ちほくぐうだん)』と、北辺防備の方策を論じた『北地危言(ほくちきげん)』を著し、幕府要路に呈上した。ロシア内通の嫌疑は事実に反していたが、これを一つの契機に北辺防備に対する関心が高まり、幕府は99年東蝦夷地(えぞち)を仮上知(かりじょうち)し、その直接経営に着手した。晩年は京都で文人としての生活を送り文化(ぶんか)7年5月18日病没。
[小林真人]