日本歴史地名大系 「大多喜往還」の解説 大多喜往還おおたきおうかん 千葉県:総論大多喜往還江戸と大多喜城下(現大多喜町)を結ぶ近世以来の道で、大多喜街道または房総中往還などともよぶ。伊南房州通(いなんぼうしゆうどおり)往還の潤井戸(うるいど)村(現市原市)―六地蔵(ろくじぞう)村(現長柄町)間にある追分(おいわけ)で分岐し、長柄山(ながらやま)村・針(はり)ヶ谷(や)村(現長柄町)―長南(ちようなん)宿(現長南町)―大多喜に至る。古くは下大多喜村から駒返(こまがえり)坂を経て妙楽寺(みようらくじ)村(現睦沢町)―大上(おおがみ)村(現同上)を過ぎ、埴生(はぶ)郡森(もり)村(現同上)、芝原(しばはら)村・葛田(くつた)村・坂本(さかもと)村(現長南町)から長南宿に至る道筋であったが、慶長一九年(一六一四)の大坂冬の陣の頃本多忠朝が大多喜城から援軍を率いて駒返坂に至ると鼬が行く手を横切ったのを不吉の兆として馬を返し、新道を開いたと伝える。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by