大多喜城下(読み)おおたきじようか

日本歴史地名大系 「大多喜城下」の解説

大多喜城下
おおたきじようか

天正一八年(一五九〇)本多忠勝が一〇万石で入封し、戦国期の小田喜おだき城下を継承して形成した大多喜城の城下町。城はその後無主・廃城になった時期があるが、元禄一六年(一七〇三)松平(大河内)氏が二万石で入封、以後松平氏大多喜城の城下町として幕末に至る。なお城下町は大多喜町とも称されるが、江戸後期においても中世以来の「ヲダキ」とよばれていた(改革組合帳)

〔城下町の形成〕

本多忠勝は小田喜(大多喜)入封後、一〇万石にふさわしい城郭と城下町の建設をめざしたが、城は西から北に房総丘陵連山を背負い、東から南は段差のある夷隅川に囲まれて城地が限定されていたため、近世城下に転じきれないところがあった。当初の城下は大多喜城の曲輪続きの南部と東部武家屋敷、その外側に町人町を配し、城下全体は大きく屈曲して流れる夷隅川と、川沿いに配置した寺社で防備したと考えられる。鉤形大多喜往還(道幅七尺)に沿って、紺屋こうや町を北限として南に町・猿稲さるいね町・久保くぼ町・桜台さくらだい町・しん町・柳原やなばら町の城下七町(根古屋七町)を形成した。うち紺屋町・田町・猿稲町は職人町、久保町・桜台町新町柳原町は商人町で、桜台町と新町には旅籠が多く花町としても賑わった。なお城下七町は銭神松ぜにかみまつとともに、元禄郷帳に「惣名根小屋町」、天保郷帳に「根小屋」の注記つきで記載されている。屋敷は街路両側に短冊形に並び、その間口三間―三間半、奥行は二〇間前後が多かった。忠勝は城下の振興のため久保町で六斎市を開かせた(大久保家文書)。慶長二年(一五九七)には領内惣検地を実施しており、この頃までに城下町の原形も確立していたと考えられる。忠勝の後、五万石で大多喜藩を継いだ忠朝時代の同一四年九月、遭難して岩和田いわわだ海岸(現御宿町)に漂着し、大多喜城に招かれたドン・ロドリゴの「日本見聞録」によれば、城下の人口は一万―一万二千人で、江戸との往来も多く、房総で最も繁栄していたとある。

本多氏三代の後に入った阿部正次は元和五年(一六一九)に相模小田原に転じ、大多喜藩は廃藩となり、城下町などはその飛地領になった。同九年に正次が武蔵国岩槻に転じ、大多喜には青山忠俊が入封したが、まもなく廃藩となり、城下を含む旧藩領は幕府領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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