日本歴史地名大系 「大多喜城下」の解説
大多喜城下
おおたきじようか
〔城下町の形成〕
本多忠勝は小田喜(大多喜)入封後、一〇万石にふさわしい城郭と城下町の建設をめざしたが、城は西から北に房総丘陵の連山を背負い、東から南は段差のある夷隅川に囲まれて城地が限定されていたため、近世城下に転じきれないところがあった。当初の城下は大多喜城の曲輪続きの南部と東部に武家屋敷、その外側に町人町を配し、城下全体は大きく屈曲して流れる夷隅川と、川沿いに配置した寺社で防備したと考えられる。鉤形の大多喜往還(道幅七尺)に沿って、
本多氏三代の後に入った阿部正次は元和五年(一六一九)に相模小田原に転じ、大多喜藩は廃藩となり、城下町などはその飛地領になった。同九年に正次が武蔵国岩槻に転じ、大多喜には青山忠俊が入封したが、まもなく廃藩となり、城下を含む旧藩領は幕府領となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報