日本歴史地名大系 「針ヶ谷村」の解説 針ヶ谷村はりがやむら 千葉県:長生郡長柄町針ヶ谷村[現在地名]長柄町針ヶ谷立鳥(たつとり)村の北西にあり、一宮(いちのみや)川が東流する。大多喜(おおたき)往還が通る。仏像伽藍記(藻原寺文書)によれば、貞和二年(一三四六)一〇月三〇日妙光(みようこう)寺(現茂原市藻原寺)に奉納した鰐口の鋳物師の一人として刑部(おさかべ)郷内針谷郷住人の広科広綱(広階広嗣か)がいた。広階姓鋳物師は建長八年(一二五六)の下総国分寺鐘銘にみえる広階重守、弘長四年(一二六四)の長柄山胎蔵(たいぞう)寺梵鐘銘の広階重永(重長)らが知られ、河内国を本国とし、鎌倉の長谷大仏の造立を契機に相模に移住、さらに上総に拠点を変えたとされるが、その時期は貞和二年にはすでに針谷に定着しており、鎌倉後期の可能性が指摘されている。 針ヶ谷村はりがやむら 埼玉県:大里郡岡部町針ヶ谷村[現在地名]岡部町針ヶ谷・櫛挽(くしびき)針谷・針加野などとも記す。櫛挽台地の西縁に位置し、東は岡部村、樫合(かしあい)村(現深谷市)、西から南は今泉(いまいずみ)村・本郷(ほんごう)村、北は山崎(やまざき)村・山川(やまがわ)村。台地西沿いを流れる藤治(とうじ)川の谷地(湿地)を開墾して成立した村とされ、村名も墾谷(ハリヤ)の意に由来するという。村内を古鎌倉街道と称する寄居(よりい)往還が通る(風土記稿)。京都醍醐寺所蔵の四度口決西院奥書に、永徳二年(一三八二)四月六日に「於武州榛沢郡針加野教王弘光寺灌頂道場書之」とみえる。戦国期当地一帯でしばしば合戦が繰広げられ、文明九年(一四七七)五月八日には上杉顕定・定正と長尾景春が針谷原で戦った(松陰私語)。 針ヶ谷村はりがやむら 埼玉県:浦和市針ヶ谷村[現在地名]浦和市針ヶ谷一―四丁目・北浦和(きたうらわ)一―五丁目・元町(もとちよう)二丁目領家(りようけ)村の西に位置し、北は上木崎(かみきざき)村、西は中里(なかざと)村・下落合(しもおちあい)村(現与野市)で、洪積台地と沖積低地からなる。中山道が通り、上木崎村との境に一里塚と一里塚の間に植えられた欅が現存する。赤山(あかやま)街道が当地で中山道と交差する。徳川家康の関東入国にあたり、高力清長は岩槻二万石を与えられたほか浦和郷一万石の代官を命じられたが、清長は家人中村弥右衛門吉照(吉繁か)を浦和郷の代官とし、年貢を直接江戸の官倉に納めさせ、のち吉照は幕府代官となったという。 針ヶ谷村はりがやむら 埼玉県:富士見市針ヶ谷村[現在地名]富士見市針ヶ谷水子(みずこ)村の南西、北東流する柳瀬(やなせ)川左岸の沖積地とその背後台地上にある。近世初期には同川対岸の館(たて)村(現志木市)の一部で、天正一九年(一五九一)中大蔵により検地が実施されたと伝える(風土記稿)。館村御地頭附(尾崎家文書)には、寛永二〇年(一六四三)館・中野(なかの)・引又(ひきまた)・針ヶ谷の四村に分郷と記される。田園簿に村名はみえないが、寛文元年(一六六一)川越藩が野火止(のびどめ)新田(現新座市)を開発した時、針ヶ谷村が出作として野火止のうち二町余の畑を開発している(「野火止出作方年貢割付状」旧大和田町役場文書)。 針ヶ谷村はりがやむら 栃木県:宇都宮市針ヶ谷村[現在地名]宇都宮市針ヶ谷町・針ヶ谷一丁目・さつき三丁目・南町(みなみちよう)・富士見町(ふじみちよう)北は兵庫塚(ひようごづか)村・西川田(にしかわた)村、東は雀宮(すずめのみや)村、南は都賀(つが)郡上古山(かみこやま)村(現下都賀郡石橋町)に接する平坦地で、南北に長い。慶安郷帳に田方二七二石余・畑方一一八石余とある。近世初期から中期は宇都宮藩領。天保年間(一八三〇―四四)には幕府領と下総関宿藩の相給となり、旧高旧領取調帳では幕府領分六七石余・関宿藩領分四六〇石余である。享保元年(一七一六)の雀宮宿助郷高三七三石(「雀宮宿助郷帳」県立図書館蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by