長南宿
ちようなんしゆく
[現在地名]長南町長南
江戸時代の矢貫村内にあった大多喜往還の宿駅で、埴生郡内の在郷町として物資の集散地となった。西方の鶴舞村(現市原市)、東方の茂原に通じる道が分岐する。史料上は長南宿(天明八年「下小野田村明細帳」田辺家文書、文化六年「請状」長南町史)、長南町(宝暦一一年「永井村明細帳」渡辺家文書)、長南駅(寛政五年「矢貫村万控帳抜書」今関家文書)などとみえる。天明八年(一七八八)宿の名主三人が同年七月の巡見使通行の負担などをめぐって坂本村などに訴えられているが、この時は埴生郡内諸村に一〇〇石につき杉丸太一本・竹七本・縄二五尋と人足四・馬一および乗鞍・布団などの負担を割付け、前年の堀氏組衆の宿泊では郡内に賄い方の分担、また大多喜藩主の通行では人馬を割当てるなど、公的な継立のため郡内に諸負担を割当てる権限があったことが知られる(矢貫村万控帳抜書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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