日本歴史地名大系 「大桑庄」の解説
大桑庄
おおくわのしよう
古代加賀郡大桑郷(和名抄)の一部が庄園化したもので、現在の金沢市大桑町・大桑新町・西大桑町などを遺称地とし、一帯に比定される。暦仁元年(一二三八)一二月三日の四条天皇宣旨案(勝尾寺文書)に「日吉三社御供料加賀国大桑・永富庄」とみえ、天台座主領として永富庄(比定地不明)とともに円基より円尊に相伝され、建治二年(一二七六)一〇月二一日には同様に前天台座主慈禅より慈基に譲られている(「太政官符案」同文書)。元応元年(一三一九)一〇月の日吉神社領注進記(生源寺文書)では「三社御供料所、浄土寺門跡領」として「大桑・永富」両庄が載る。しかし「但近年不被付門跡、依神用闕如畢」とあって、年貢滞納が続いていた。なお永富庄は以後史料にみえなくなる。また鎌倉期と推定される某書状案(玉燭宝典第十裏書)に「加賀国大桑庄事、一円進止之条、元口関東状分明之上被沙汰候、雑掌御□不可有予議候歟」とある。
「尊卑分脈」(藤原時長孫)には加賀斎藤系武士団林氏の庶流として、林光家の子三郎利光を祖とし、佐貫小二郎光行―弥二郎光則―又二郎信光と続く大桑氏が載る。このうち光行は嘉禄三年(一二二七)四月二七日白山本宮神主職に補任され、天福二年(一二三四)八月一八日には同職に還補(三度目)している(白山宮荘厳講中記録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報