精選版 日本国語大辞典 「本願寺」の意味・読み・例文・類語
ほんがん‐じ ホングヮン‥【本願寺】
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浄土真宗本願寺派(通称西本願寺)本山、真宗大谷(おおたに)派(通称東本願寺)本山。
[清水 乞]
1262年(弘長2)親鸞(しんらん)は弟尋有(じんゆう)の善法坊にて死去、東山の西麓(せいろく)にあった延仁寺において荼毘(だび)に付され、東山大谷の地に葬られた。1272年(文永9)門弟の総意によって親鸞の娘覚信尼(かくしんに)が、再嫁した小野宮(おののみや)禅念の私有地吉水の北に改葬し、ここに六角形の草堂を建てて木彫の影像を安置した。これが大谷本廟(ほんびょう)(現在の知恩院山門の北、崇泰院の裏庭あたり)で、本願寺の起源である。のちに大谷本廟は1603年(慶長8)知恩院拡張のため東山五條(ごじょう)坂に移される。覚信尼は禅念の死後、1277年(建治3)廟堂の土地を寄進し門弟の共有とし、その管理役(留守職(るすしき))となった。留守職は長子覚恵(かくえ)に譲られたが、覚恵の異父弟唯善(ゆいぜん)と争いを生じる。1309年(延慶2)青蓮院(しょうれんいん)の決裁によって唯善は敗れ、翌年覚恵の長子覚如(かくにょ)が第3代留守職となる。唯善は廟堂を破壊して関東に逃れたが、廟堂は1311年(応長1)復興された。翌12年(正和1)廟堂に「専修寺」の額を掲げるが、叡山(えいざん)の反対により撤去される(この額は高田専修寺に移る)。
本願寺の名称は、その後まもなく用いられたようで、1321年(元亨1)の文書にその名がみえ、1333年(元弘3・正慶2)には本願寺と久遠寺(くおんじ)が護良(もりよし、あるいは、もりなが)親王の祈願所とされている。1336年(延元1・建武3)廟堂は足利尊氏(あしかがたかうじ)の兵火により焼失、38年、古い堂舎を移築する。ここに廟堂は六角堂から一般の寺院建築となり、形式上も寺院となる(一説に移築を唯善による破壊のときとする)。1357年(正平12・延文2)第4世門主善如(ぜんにょ)のとき、後光厳(ごこうごん)天皇の勅願寺となるが、第8世門主蓮如(れんにょ)までの本願寺は漸興期にあったといわれる。
1465年(寛正6)蓮如の時代、本願寺の活況は叡山の反感を買い、堂舎が破壊され、ここに東山大谷の本願寺は終わる。
蓮如は近江(おうみ)国(滋賀県)三井寺(みいでら)の南別所近松に小堂を建てて御真影を安置したが、応仁(おうにん)の乱により北陸に移る。越前(えちぜん)国(福井県)吉崎(よしざき)を中心に活躍したが専修寺門徒により焼かれ、小浜(おばま)―河内(かわち)出口と転じ、1478年(文明10)京都山科(やましな)に本願寺の再興を企てる。寺地は山科西宗寺の浄乗(じょうじょう)が寄進し、堺(さかい)より信証院を移築し、5年後に完成した。1532年(天文1)本願寺の勢力を危惧(きぐ)した細川晴元(はるもと)は六角定頼(さだより)と組み、日蓮宗徒を抱き込み、堂宇を焼く。このとき、大坂にいた第10世証如(しょうにょ)は1533年大坂御坊を本願寺とする。これが石山本願寺である。証如の子顕如は織田信長と戦い(石山合戦)、1580年(天正8)顕如は紀州(和歌山県)鷺ノ森(さぎのもり)に退いたが、1591年(天正19)豊臣(とよとみ)秀吉の援助により京都六条堀川に移る。しかし第12代相続にあたり1602年(慶長7)顕如の長男教如は徳川家康より京都烏丸(からすま)に寺地を与えられて本願寺を別立し、ここに西本願寺と東本願寺に分裂した。
[清水 乞]
京都市下京(しもぎょう)区堀川通花屋町下ル。浄土真宗本願寺派本山。龍谷(りゅうこく)山と号する。覚信尼の開基。1272年開創。正しくは本願寺と称し、東本願寺に対して西本願寺、「お西」と通称する。第11世門主顕如は豊臣秀吉の援助によって1591年六条堀川に本願寺を移築し、翌年には阿弥陀(あみだ)堂をはじめ諸堂が建造される。この年顕如が没し、秀吉は長男の教如に第12世門主を継ぐことを勧めたが、石山合戦のとき、父と対立した教如は弟の准如(じゅんにょ)にその職を譲り隠居する。1602年准如が正式に第12世門主を継ぎ、西本願寺は再出発する。1617年(元和3)浴室から出火、御影堂、阿弥陀堂など諸堂宇を焼失。1630年より秀吉の聚楽第(じゅらくだい)から飛雲閣(国宝)が移築され、伏見(ふしみ)城から書院、唐門(からもん)(ともに国宝)、能舞台(国重要文化財)が移転されたという。また1636年(寛永13)には御影堂が再建、1760年(宝暦10)には阿弥陀堂が再建され、伽藍(がらん)は整備された。他方、1639年一信徒の寄進によって学寮がつくられ宗学の中心となる。この学寮はのちに学林とよばれ、学頭職、能化(のうけ)職が置かれた。1797年(寛政9)第6代能化の功存(こうそん)、第7代能化の智洞(ちとう)らが異安心(いあんじん)を唱え、宗学が混乱したため能化職は廃止され、1824年(文政7)勧学職を置くことになった。
明治時代には率先して学術研究に力を注ぎ、第22世鏡如(きょうにょ)(大谷光瑞(こうずい))は1902年(明治35)より1914年(大正3)にかけて西域(せいいき)探検隊を組織して現地調査を行った。また宗内の教育体制の確立も早く、1875年学林を廃止して、大・中・小教校を設置、1900年には大学以下2種の学校を置いた。現在宗立の学校は大学9校(短大、中・高校併設を含む)に及ぶ。西本願寺は火災にあうことが少なく、国宝、国重要文化財指定のものが多い。また寺宝として親鸞聖人像、『三十六人家集』(以上、国宝)、『慕帰絵詞(ぼきえことば)』『伏見(ふしみ)天皇宸翰(しんかん)御歌集』(以上、国重文)など名宝が多い。1994年(平成6)、本願寺(西本願寺)は世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。
[清水 乞]
京都市下京区烏丸通七条上ル。真宗大谷派本山。正しくは本願寺という。西本願寺に対して東本願寺、あるいは大谷本願寺、「お東」と通称する。教如の開基。1272年開創。顕如の長男教如は1602年徳川家康より与えられた現在の地に大師堂(古くは祖師堂という。本願寺派の御影堂)をはじめ伽藍を建立。大師堂の完成は1604年で、ここに上州厩橋(うまやばし)妙安寺より親鸞自刻と伝えられる木彫親鸞像が安置された。教如は1614年死亡し、宣如が後を継ぐが、生涯を裏方として終わった。1619年の「本願寺内敷地御寄附状」に現在地寄付のことが記されているので、宣如の代に東本願寺に幕府から公認されたことになる。1639年家康は渉成園(しょうせいえん)(枳殻(きこく)邸)の土地を寄進。1652年(承応1)より58年(万治1)にかけて大師堂の改築、65年九州観世音寺(かんぜおんじ)の講堂を渉成園に移し学寮とした。67年第15世常如は本堂の改築を行っているが、その後、天明(てんめい)(1781~89)、文政(ぶんせい)(1818~30)、安政(あんせい)(1854~60)とたび重なる火災により堂宇を焼失し、現在の本堂と大師堂は1895年(明治28)の再建。そのほか勅使門、宮御殿、書院などの建築物も明治時代のものである。西本願寺と同様、宗学の顕揚に努め、学寮に講師職を置き(1715)、明治時代には梵(ぼん)文書の翻訳などに力を注ぎ、仏教学研究に先駆的役割を果たした。1875年(明治8)大・中・小教校を設けて宗門子弟の教育を行った。これが現在の大谷大学など宗立学校の前身である。寺宝に親鸞自筆『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(国宝)、親鸞聖人画像(安城御影)、本願寺聖人伝絵(ともに国重文)などがある。
[清水 乞]
『井上鋭夫著『本願寺』(1981・至文堂)』▽『浜田隆著『本願寺』(1975・中央公論美術出版)』▽『宮崎円遵著『東西本願寺』(1962・教育新潮社)』
光明山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。付近に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
本派本願寺・西本願寺とも。京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山。竜谷山と号す。1591年(天正19)豊臣秀吉の土地寄進をうけた本願寺11世顕如が現在地に移転。顕如(けんにょ)の没後,長男教如と三男准如(じゅんにょ)の後継争いがおき,93年(文禄2)准如が正式に12世をつぐ。1602年(慶長7)徳川家康から寺地を寄進された教如は東本願寺をおこし,東西に分立。17年(元和3)失火により御影(みえい)堂・阿弥陀堂を焼失するが,36~1760年(寛永13~宝暦10)に再建。1881年(明治14)21世明如のとき,国会に先駆けて集会(宗会)を開設するなど組織を近代化。飛雲閣・書院・北能舞台・唐門,親鸞の「観無量寿経註」などの国宝や,大師堂・阿弥陀堂などの重文がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1570年(元亀1)から80年(天正8)まで織田信長と戦った一向一揆。石山合戦ともいうが,本願寺の所在地摂津国石山で11年間絶えまなく戦闘があったわけではない。 1568年(永禄11)入洛した信長は70年石山明渡しを要求し,本願寺はこれを拒絶して緊張は激化していた。…
…中世,近世における本願寺歴代宗主(しゆうす)の庶子一族および猶子群の総称。本願寺は親鸞墓所の管理から出発した寺で,血脈によって法流を伝持していったため,はじめから強い“家”意識を持ち続けた。…
… さらに,親鸞を宗祖とする真宗の門徒もまた,一向専修を宗旨とするため一向衆と呼ばれ,時衆や一向派と混同された。本願寺第3世覚如の《本願寺親鸞上人門弟等愁申状》によると,1302年(乾元1)ころ,一向衆と号して諸国を横行し,放埒な行為を働く輩が禁遏(きんあつ)されたとき,本願寺門徒をそれと混同してはならないといっている。しかしこのころより一向衆という呼称は,むしろ親鸞の門流を指すようになった。…
…城の位置する上町台地の北端は,北側に淀川,東に大和川支流と低湿地,西は平地から海に臨み,南方にのみ台地が続くという要害の地である。戦国時代,1532年(天文1)本願寺がここを本拠とし,御堂を中心に寺内町をつくり,濠,土塁を築いて城構えをしたのにはじまる。統一政権樹立を目ざす織田信長は,本願寺に大坂からの退去をせまり,両者の対立は11年にわたる石山合戦に発展した。…
…72年(文永9)東国門弟たちの協力を得て,尼の居住地に親鸞の廟堂を建てる。これを大谷廟堂といい,のち本願寺と称す。77年(建治3)大谷の地を廟堂に寄進して門弟の共有とし,廟堂の守護(留守職)に尼の子孫をあて,本願寺の血統相続の基をひらく。…
…寺内町の早い例は,蓮如による越前吉崎御坊で,山上に多屋(田屋,他屋)が立ち並んだが,寺内町としての形態はまだ不十分であった。1479年(文明11),80年の山城の山科本願寺では寺内町が成立し,8町が〈在家又洛中に異ならず〉(《二水記》)という状況であった。ついで大坂の石山本願寺には当初寺内6町のち10町を超える町が発展した。…
…もちろん一宗を開く意志はなかったから特定の宗派名として使用したわけではないが,浄土真宗の伝灯として三国の七祖名(インドの竜樹(りゆうじゆ),天親(てんじん),中国の曇鸞(どんらん),道綽(どうしやく),善導,日本の源信,法然)をあげ,自己の信ずる宗教として浄土真宗の名を用いた。本願寺第8代蓮如は,浄土真宗を宗派名として意識し強調した。当時,真宗を一向宗と呼ぶものが多かったが,蓮如は1473年(文明5)9月下旬の《御文》の中で,〈夫当宗を一向宗とわが宗よりもまた他宗よりもその名を一向宗といへることさらにこゝろゑがたき次第なり。…
…慈円は法然や親鸞を庇護し,親鸞は慈円について得度,その入滅後に廟所と御影堂が当院寺域内の大谷に営まれた。これが本願寺の起源となり,そののち本願寺法主は明治まで当院で得度することが慣例となった。寺地は,はじめ付近の白川,吉水を転々としたが,1237年(嘉禎3)現在地に移った。…
…四つにはこれら4宗の寺には,旧仏教や禅宗の大寺のように,創建当初から朝廷や幕府の官寺や祈禱所として七堂伽藍を整備し,寺領寄進をうけて出発した寺はなかった。浄土宗の知恩院,真宗の本願寺や専修(せんじゆ)寺,日蓮宗の久遠(くおん)寺など,いずれも武士や民衆に支えられて草庵から出発した寺院である。五つには,旧仏教や禅宗が宗祖によって中国から将来された仏教だったのに対し,これら4宗の宗祖,法然・親鸞・一遍・日蓮は入唐求法の意志もまたその経験もなく,経典や聖教を模索して教説の体系を形成した歴史をもち,この意味では鎌倉時代の日本がその社会のなかで育て上げた日本仏教ともいうべき宗教だった。…
※「本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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