大谷原
おおやはら
大谷休泊が館林城西方に広がる館野ヶ原西方に植林して生れた松林。近世の高根・谷越・成島・近藤・小桑原・青柳(現館林市)、赤堀・狸塚(現邑楽郡邑楽町)に及び、約五一八ヘクタールを占める。
休泊は多野郡平井城(現藤岡市)の城主上杉憲政の旧臣といわれ、のち館林城主(赤井文六もしくは長尾景長か)の招きにより成島に移り、永禄元年(一五五八)植林に着手したという。明治一四年(一八八一)休泊の子孫を称する熊倉喜三郎ら四名により、農商務省に提出するため作成された「大谷休泊原由書」によれば、邑楽郡中に松苗がないため、新田郡金山(現太田市)に新道を開いて松苗木八万本を移し植林したという。同年は干天であったため大半は枯れてしまい、翌年山神社を中央部に勧請し、その付近より再び植林を始めた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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