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館林藩 たてばやしはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

館林藩
たてばやしはん

江戸時代,上野国 (群馬県) 館林地方を領有した藩。榊原氏 10万石に始り,正保1 (1644) 年に松平 (大給) 氏6万 1000石,のち5万 6000石,寛文1 (61) ~延宝8 (80) 年5代将軍になるまで徳川綱吉が 25万石,宝永4 (1707) 年から松平 (越智) 氏2万 4000石,享保 13 (28) 年から太田氏5万石,延享3 (46) 年から松平 (越智) 氏5万 4000石復封,天保7 (1836) 年から井上氏6万石,弘化2 (45) 年から廃藩置県まで秋元氏が在封した。

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百科事典マイペディアの解説

館林藩【たてばやしはん】

上野国邑楽(おうら)郡館林(現,群馬県館林市)に政庁(館林城)を置いた譜代中藩。1590年徳川家康が関東に入国すると,榊原康政が上野国邑楽・勢田郡,下野国梁田郡のうちで10万石を与えられて入部し,館林藩が成立した。

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

たてばやしはん【館林藩】

江戸時代上野(こうずけ)国邑楽(おうら)郡館林(現、群馬県 館林市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は道学館、求道館(のち造士書院)。1590年(天正(てんしょう)18)の徳川家康(とくがわいえやす)関東入国に伴い、徳川四天王の一人榊原康政(さかきばらやすまさ)が10万石を封じられ立藩した。1643年(寛永(かんえい)20)に榊原氏は陸奥(むつ)国白河藩に移り、1645年(正保(しょうほう)2)、松平(大給(おぎゅう))乗寿(のりなが)が6万石で入封(にゅうほう)した。次いで61年(寛文(かんぶん)1)に徳川綱吉(つなよし)が25万石で入り、80年(延宝(えんぽう)8)に将軍職で出ると、子の徳松が1歳で藩主となった。しかし、徳松が83年(天和(てんな)3)に幼死したため、館林城は廃城、藩領は幕領や旗本領となった。1707年(宝永4)、松平(越智(おち))清武(きよたけ)が2万4000石で入封、再築城して5万4000石となった。その後は、28年(享保(きょうほう)13)に太田資晴(すけはる)が5万石で、46年(延享(えんきょう)3)には松平(越智(おち))武元が再封された。翌年、武元は老中となり、6万1000石に加増された。次いで、1836年(天保(てんう)7)に井上正春、45年(弘化2)には秋元志朝(ゆきとも)が6万石で入封した。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、関東でもっとも早く新政府軍に加わった。71年(明治4)の廃藩置県により館林県を経て栃木県に編入されたが、76年に群馬県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

たてばやしはん【館林藩】

上野国(群馬県)邑楽郡館林城に藩庁をおいた譜代中藩。1590年(天正18)徳川家康の関東入国にともない,四天王の一人榊原康政が10万石に封ぜられて立藩。所領は邑楽・山田両郡および下野梁田郡にわたる。入封の翌年領内の総検地を行い,さらに利根川渡良瀬川の築堤改修や城下町の拡大整備を進めた。榊原氏は康政のあと2代在封して1643年(寛永20)奥州白河に転じ,番城1年を経て遠江浜松から松平(大給)乗寿が6万石で入封,乗寿は家光の側近老中として活躍したが,子乗久のとき61年(寛文1)下総佐倉に移った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

館林藩
たてばやしはん

上野(こうずけ)国館林城(群馬県館林市)を藩庁とした譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)徳川氏四天王の一人榊原康政(さかきばらやすまさ)が10万石を与えられて立藩。康政は入封の翌年領内の総検地を実施、また利根(とね)・渡良瀬(わたらせ)川の築堤、城下町の整備に努めた。榊原氏3代のあと番城1年を経て1644年(正保1)松平(大給(おぎゅう))乗寿(のりなが)が入封(6万石)して2代。1661年(寛文1)徳川綱吉(つなよし)が入城して25万石を領したが、将軍職に出た後を継いだ子徳松(とくまつ)が83年(天和3)幼死して廃城となった。その後1707年(宝永4)松平(越智(おち))清武(きよたけ)が入封して再築城し、所領も5万4000石までなったが、28年(享保13)武元のとき奥州棚倉(たなぐら)(福島県東白川郡)に移り、かわって太田資晴(すけはる)が入封した(5万石)。資晴の大坂城代転出に伴い城付領は一時幕領となったが、のち旧に復し1746年(延享3)松平(越智)武元が再封され、翌年老中となる。松平氏は3代在封ののち、1836年(天保7)石見(いわみ)浜田(島根県浜田市)に移り、井上正春がかわった。
 さらに1845年(弘化2)には山形から秋元志朝(ゆきとも)が入封したが2代で廃藩。幕末の秋元氏は藩校求道館(きゅうどうかん)(造士書院)の創設など藩政強化を図り、長州や宇都宮藩主との縁から、分領河内(かわち)(大阪府)の雄略(ゆうりゃく)陵修理など勤王に奔走、戊辰(ぼしん)戦争には上野鎮定のほか、野州出流山(いずるさん)、奥州にも転戦した。1871年(明治4)廃藩後、館林県を経て栃木県、ついで76年群馬県に編入された。[山田武麿]
『川島維知著「館林藩」(『新編物語藩史 第3巻』所収・1976・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の館林藩の言及

【播磨国】より

竜野藩は29年(文政12),明石藩は38年(天保9)に木綿の専売制を始めている。上野館林藩も30年飛地領の三木の金物について専売制を強行したが,これはすぐに中止となった。貢租米や専売国産の大坂,江戸への積出し港として飾磨津,高砂,網干が繁栄し,瀬戸内海交通海運の港として室津が栄えた。…

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