日本歴史地名大系 「天辰村」の解説 天辰村あまだつむら 鹿児島県:川内市天辰村[現在地名]川内市天辰町(あまたつちよう)平佐(ひらさ)村の北、ほぼ南流する川内川東岸にあり、北は東(とう)郷白浜(しらはま)村、北東は樋脇(ひわき)郷楠元(くすもと)村、西は川を挟んで中(ちゆう)郷中郷(ちゆうごう)村。南北朝期に当地に築かれた碇山(いかりやま)城は文和三年(一三五四)薩摩守護所となり、薩摩守護を継承した総州家島津氏の本城となった。応永一四年(一四〇七)二月九日の島津忠朝寄進状(相馬氏系図)に「薩摩郡内天辰谷口」とみえ、同所三反の地が総州家島津伊久の次男忠朝から永代を限り串木野の冠嶽(かんがく)山三所権現(現冠嶽神社)に寄進されている。同一七年一二月一一日には忠朝の甥久世から山門(やまと)院野田感応(のだかんのう)寺(現野田町)に天辰別分などが宛行われた(「総州島津久世宛行状」旧記雑録)。文明六年(一四七四)の行脚僧雑録(旧記雑録)には天辰とみえ、「雲遊雑記伝」では「新六」と注記する。永伝元年(延徳二年、一四九〇)八月二一日の渋谷重豊譲状(入来院文書)で子息重聡に譲与された地のうちに天辰村があり、同年のものとみられる田畠薗地并屋敷注文(同文書)には天辰の東門があげられている。同注文では自作田として「天辰こなてしま」一町一反(異筆で三町一反二〇)、畠地自作分として「天辰みたちその」二反が記される。この頃入来院氏の勢力が当地まで伸びていたことがわかる。永禄一二年(一五六九)冬、入来院重嗣は島津氏に降り(入来院氏系図)、島津氏に天辰などが差出された(「長谷場越前自記」「箕輪伊賀覚書」旧記雑録など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報