太初暦(読み)たいしょれき(英語表記)Tài chū lì

改訂新版 世界大百科事典 「太初暦」の意味・わかりやすい解説

太初暦 (たいしょれき)
Tài chū lì

中国,漢の武帝の太初1年(前104)から施行された暦法。はじめ鄧平が作り1朔望月を29日+43/81日としたので八十一分法ともよばれた。1回帰年は365日+385/1539日。改暦には司馬遷落下閎(らつかこう)らが参加し,夏5月をもって暦を改め,漢初以来,秦の顓頊暦(せんぎよくれき)を襲って10月歳首としていたのを正月歳首とし,冬至は11月に固定し,中気のない月を閏月とする方法を採用した。三統暦劉歆(りゆうきん)がこれを補修したもの。
四分暦
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の太初暦の言及

【暦】より

…中国ではその歴史時代の最初の王朝である殷(いん)が前16世紀に始まるが,前14世紀ころからは甲骨文による暦日資料が残っている。中国の暦法でその詳細が明らかな最初は前104年,漢の太初元年より施行された太初暦である。それ以前には四分暦(1年を365日と4分の1日とすることからこの名がある)が用いられていた。…

【司馬遷】より

…おりしも病床にあった父は,泰山での封禅(ほうぜん)の盛儀に参加できぬ無念さをもこめて,記録事業を復興し明君忠臣義士の事跡を記述すべきことを遺言した。ここで司馬遷は《史記》撰述を決意し,前108年,父のあとをついで太史令になると,帝室図書館の古記録や図書を精力的に調査読破する一方,太史令の職務として暦の改定を進め,前104年11月1日甲子の日を起点とする太初暦の作成を監督した。太初と改元されたその日,新暦が頒布された直後に,司馬遷は《史記》執筆を開始し,この新秩序成立に至るまでの人間の努力を正しく位置づけようとする。…

【中国科学】より

…上述したように儒教は国教として確立したが,科学技術の面でもその集大成が行われ,中国文明のパターンができあがった。天文学の面では官暦第1号となった太初暦(のちに三統暦として増補)がつくられ,中国暦法の原型が確立した。医学の面では,前漢時代に《黄帝内経》が編纂され,後漢時代の《傷寒論》とあいまって,中国医学の二大古典が成立した。…

【二十四節気】より

…しかし,月の長さは1朔望月(さくぼうげつ)(29.53日)によって大月と小月が決められたため,初期の暦法の場合は19年に7回の頻度で閏月が出現し,1月の中に1個の節気ないし1個の中気しか含まれないことになるが,中気が含まれない月のほうを閏月とし,その前の月名により閏何月と呼ばれた。この置閏の原則は前104年に制定された前漢の太初暦以後の暦法に踏襲された。後漢末の劉洪が月の運動の不規則性を考慮した暦法を作り,北斉(550‐577)の張子信が太陽の視運動の不規則性を発見したのを受けて,隋の劉焯(りゆうしやく)は604年(仁寿4),皇極暦を作成して二十四節気の決め方の改革を提唱した。…

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