従来の暦法を廃して新暦を施行すること。日本では1873年1月1日より太陽暦に改暦され,従来の太陰太陽暦は廃止された。その太陽暦はグレゴリオ暦といい,1582年10月15日よりローマ法王グレゴリウス13世により採用されたもので,それ以前に使用されていた太陽暦はユリウス暦といった。日本では7世紀以来9種類の太陰太陽暦が用いられたが,日本人の手になる改暦は1685年の貞享改暦以後,最後の天保改暦までの4回である。
天の意志に従うことを政治の理念としていた中国で,天体現象に結びついている暦法は国家の大典と考えられ,王朝が変わるたびに王朝の象徴として改められた。後に南北朝時代(5~6世紀)のころからは一つの王朝の間にも二度,三度と改暦が行われるようになり,唐代にはさらに頻繁に改暦された。中国の暦法は単なるカレンダーではなく,日食,月食の予報から惑星現象の予知まで含むために,計算技術の改良が改暦を促す要因となった。また暦法は国家の大典として政治の支配下にあり,天文学者は役人としてよい地位を確保するために動いたことも改暦の原因となったといえる。中国の影響を強く受けていた日本の場合,改暦も平安時代の宣明暦まではそのときどきに輸入された中国暦を受け継いでいた。日本人による貞享改暦以後は,8代将軍徳川吉宗の意向という政治的配慮に従った宝暦改暦以外は,もっぱら日食,月食予報の精度向上に重きが置かれていた。ただ明治の改暦は根本的に理由が違う。世界の大勢から考えて太陽暦への改暦は時間の問題であった。たまたま1873年は旧暦では閏(うるう)月が入って1年13ヵ月であった。前年から月給制を採用していた政府は1ヵ月の月給の余分の支出を逃れるため急きょ太陽暦に切り替えたものである。このことはそれに携わった大隈重信の回顧談に明記されている。
なんらの啓蒙運動もなく旧暦明治5年12月3日を太陽暦の1月1日とするとして実施したため,庶民は改暦の真意を理解できないで当惑した。その旧暦最後の日,12月2日の銭湯での話として,〈昨日は徳川様の12月朔日(ついたち)で明日は天朝の元日だという,これでは1日で1ヵ月分の働きをしなければならないから,やはり徳川様の暦がよい〉という当時の新聞記事がその感じをよく伝えている。
→暦
執筆者:内田 正男
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暦法をまったく異種の暦法に改める場合、あるいは同一暦法でも、その用数を変更するような場合をいう。一つの暦法をあまり長期にわたって使用していると、わずかの誤差も積もって実際の天象とあわなくなるので、常時天象を観測してその誤差が目だってくると改暦が行われた。日本では明治以前、最初の元嘉(げんか)暦採用(690)以来8回の改暦があり、いずれも同種暦法の改暦であったが、1872年(明治5)には太陰太陽暦法からまったく別種の太陽暦への改暦が行われた。中国では国が改まった場合、人心を新しくし、支配者の権威を示すためにしばしば改暦が行われるのが普通であった。
[渡辺敏夫]
…その差は128年で1日となるから,ローマ教皇グレゴリウス13世のころ(16世紀後半)には日付と季節とのずれは10日にも達した。そこで教皇は改暦委員会を組織し改暦案を検討させた。325年に小アジアのニカエアで行われた宗教会議の当時,春分は3月21日であったが,当時は春分が3月11日になってしまっていた。…
※「改暦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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