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司馬遷 しばせんSi-ma Qian

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

司馬遷
しばせん
Si-ma Qian

[生]中元5(前145)?
[没]始元1(前86)?
中国,前漢の歴史家。夏陽 (陝西省韓城県) の人。字,子長。生没年については諸説の間にかなりの幅がある。 20歳から父司馬談の命を受けて諸地方を旅行し,古い記録などを集めた。のち郎中となって名をあげ,元封3 (前 108) 年,父の跡を継いで太史令となった。そのため太史公ともいう。天漢2 (前 99) 年,匈奴の捕虜となった李陵の弁護をして武帝の怒りに触れ下獄,翌年宮刑に処せられた。2年後大赦によって出獄,中書令となり,父の遺命で早くから着手していた修史の事業に没頭し,不朽の名著『史記』を著わした。

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デジタル大辞泉の解説

しば‐せん【司馬遷】

[前145ころ~前86ころ]中国、前漢歴史家。夏陽(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子長。武帝の時、太史令となり、暦法の改革に参加。匈奴に降った李陵を弁護したため宮刑に処せられ、のち、父の司馬談の遺志を継いで「史記」を完成させた。太史公
武田泰淳の評論。昭和18年(1943)刊。の人物像を描く「司馬遷伝」、「史記」独特の歴史・世界観を論じる「『史記』の世界構想」の2部からなる。

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百科事典マイペディアの解説

司馬遷【しばせん】

中国,前漢の歴史家。敬称は太史公。若いころ全国を周遊,戦国諸侯の記録を収集した。父の意を継ぎ太史令となり,《史記》の編纂(へんさん)に着手。前98年,匈奴(きょうど)の捕虜となった李陵を弁護して武帝の怒りを買い,宮刑を受けた。
→関連項目紀伝体

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世界大百科事典 第2版の解説

しばせん【司馬遷 Sī mǎ Qiān】

前145?‐前86?
中国の歴史家。《史記》の著者。司馬氏は周王朝の史官すなわち記録官の家柄であったが,春秋戦国の混乱期に没落し,父の司馬談に至って漢の武帝の太史令の地位に復帰した。司馬遷は前145年ごろ竜門(陝西省韓城県)に生まれたらしいが,天文・易・道家の学に詳しい父から10歳で古い文字を教えられ,古典を読むとともに,首都長安で当時の大学者,董仲舒(とうちゆうじよ)から《春秋公羊伝(くようでん)》を中心とする儒学を学んだ。

しばせん【司馬遷】

武田泰淳の評論。1943年,日本評論社刊。のちに《史記の世界》と改題の刊行本もある。作家以前の武田が戦時下の混迷と不安に精神のよりどころを求めようとして書き下ろしたもの。いまわしい宮刑で受けた恥の解消を願う司馬遷の書いた《史記》が,人間平等論および栄枯盛衰,生者必滅的な日本の伝統的歴史観マルキシズムの必然論でもない,非情な空間的絶対持続の歴史観に立って世界を把握したものであることを解明したすぐれた評論。

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大辞林 第三版の解説

しばせん【司馬遷】

前145?~?) 中国、前漢の歴史家。字あざなは子長。官名により太史公と称する。父司馬談の歴史編纂へんさんの大志を受け継ぐ。匈奴きようどに降伏した李陵りりようを弁護して武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられたが、修史の志を貫き、紀伝体の歴史書「史記」を完成。

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世界大百科事典内の司馬遷の言及

【漢】より

…同時に漢が400年にわたって統一国家を維持したことは,中国文化の型を定着させることになった。まず統合主義の典型としては,司馬遷が上古の黄帝から武帝にいたる二千数百年間の通史《史記》を完成した。司馬遷は古今の散乱した歴史資料を網羅して一つの体系の中に収め,みずからの歴史観と紀伝体(帝王の年代紀と個人の列伝を主とする体裁)という記述形式を樹立して史学史上に不滅の金字塔をうちたてた。…

【史記】より

司馬遷(しばせん)が書いた中国最初の通史。当時の中国を中心として,知られていたかぎりのすべての世界にわたる全歴史過程を総合的,体系的に叙述したもので,当時の中国人から見た最初の世界史といってよい。…

【秦】より

…その原因の一つは,秦に関する史料の性格に由来する。秦帝国について記述した歴史書の中で第一級の史料は《史記》および《漢書》であるが,この二つの正史はともに漢人である司馬遷,班固によって書かれたものである。漢は秦帝国の暴政を打倒することを大義名分として成立した王朝であるから,秦に対する評価は,当然厳しいものがある。…

【太初暦】より

…1回帰年は365日+385/1539日。改暦には司馬遷,落下閎(らつかこう)らが参加し,夏5月をもって暦を改め,漢初以来,秦の顓頊暦(せんぎよくれき)を襲って10月歳首としていたのを正月歳首とし,冬至は11月に固定し,中気のない月を閏月とする方法を採用した。三統暦は劉歆(りゆうきん)がこれを補修したもの。…

【旅】より


[旅の多様化]
 このような旅行の外部への拡大とともに注目すべきは,内域においても旅行の形態や目的が多様化し,学術研究や遊覧を目的とするものが現れたことである。漢代にも《史記》を著した司馬遷は,20歳で全国各地を旅行し,各地の旧跡を訪ね伝承を探りながら,地域性の違いに着目しているが,《史記》のもつ広壮な史観はこの旅によって培われたものといえよう。北魏の酈道元(れきどうげん)もさまざまな旅行の機会のなかから,各地における河川の役割の大きさに注目し,《水経注》という総合的な地理書を著した。…

【中国文学】より

…《玉台新詠》は宮体詩を主とする選集であるが,唐以後も読者は少なくなく,早く日本にも伝わっている。
[歴史と小説]
 漢の司馬遷の《史記》はそれまでの編年史(年代記)と違った新しい形式(紀伝体)の歴史書である。人間の歴史と運命についての深い思索が全部をつらぬくが,対話の劇的構成にすぐれ,それによって人物の性格描写に成功した。…

【伯夷・叔斉】より

…《論語》が2人を〈を求めて仁を得たものだ〉と称賛して以来,彼らの信念を貫き妥協を排した生き方がさまざまに論ぜられてきた。なかでも司馬遷は《史記》列伝の最初に2人の伝を置き,こうした善人が餓死し逆に悪人がはびこる世の不条理を取り上げて,〈余(わ)れ甚だ惑えり,儻(もしく)は所謂(いわゆる)天道は是(ぜ)なるや非なるや〉という疑問を投げかけている()。【小南 一郎】。…

【歴史】より

…これを補足解釈する《左氏伝》などの伝文は,儒家のイデオロギーが濃厚に表れている。 《春秋》の基本精神を継承しつつ,史書の地歩を確立したのが司馬遷の《史記》であった。司馬氏は代々史官を務め,司馬遷もまたその家学を継ぎ,六経を含む伝承・記録を集大成した。…

【司馬遷】より

…司馬氏は周王朝の史官すなわち記録官の家柄であったが,春秋戦国の混乱期に没落し,父の司馬談に至って漢の武帝の太史令の地位に復帰した。司馬遷は前145年ごろ竜門(陝西省韓城県)に生まれたらしいが,天文・易・道家の学に詳しい父から10歳で古い文字を教えられ,古典を読むとともに,首都長安で当時の大学者,董仲舒(とうちゆうじよ)から《春秋公羊伝(くようでん)》を中心とする儒学を学んだ。20歳のころ長江(揚子江)流域の旅行,斉(せい)や魯(ろ)の故都(山東省)での留学を含む2~3年の間,各地で史跡調査や伝承採集を行う。…

※「司馬遷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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