中国、前漢第7代の皇帝(在位前141~前87)。廟号(びょうごう)は世宗。姓名は劉徹(りゅうてつ)。父は景帝。7歳で皇太子となり、16歳で即位した。実権のあった祖母竇(とう)太后死去の紀元前135年ごろから独裁的専制君主の本領を発揮するようになった。内政では諸侯王国を王の諸子に分封させる推恩(すいおん)令をしき、封建諸侯王の抑制を徹底的なものとし、前106年には全土を13州に分かって州に刺史(しし)を置き、郡県の地方行政の組織的監察を実現した。また高官の子弟の任用(任子)を主とした官吏登用制度を改革し、各郡国に毎年孝と廉とを推挙させ(孝廉科)、あるいは儒学を公認の教学として五経博士を設置し、博士官に配属された弟子員のなかから試験合格者を官吏として抜擢(ばってき)するなどの方法を創始し、専制的な官僚統治の体制を整備した。
彼の治世の特色は、武帝という諡号(しごう)が示すように、漢の周辺の諸民族、諸地域に対する大規模な軍事遠征を成功させ、中国史上空前の大帝国を樹立したことである。北方の匈奴(きょうど)に対しては衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)の2将軍を起用し、前129年から9回の遠征を展開し、前127年にオルドスを、前121年に河西地方を回復、制圧し、前120年には匈奴の本拠をゴビ以北に退けた。南方では前111年に広東(カントン)、広西、ベトナム北部を支配していた南越国を滅ぼし、また雲南、貴州、四川(しせん)南部方面の西南夷(せいなんい)の諸地域をも制圧し、これらに漢の郡を設置した。さらに東方では前108年に衛(えい)氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮に楽浪(らくろう)など4郡を設置した。東西交通の開始と西域(せいいき)、いわゆるシルク・ロードへの進出も武帝の対外政策の産物である。彼は月氏(げっし)国に使いした張騫(ちょうけん)の西域報告から西域への関心を深め、そして河西の地を確保し、匈奴をゴビ以北に後退させて西域への影響力を弱めたことで、東西交通と西域進出の基盤をつくった。張騫を烏孫(うそん)に派遣したことを機に西域諸国と漢との正式の交通が始まり、武帝は毎年交易を目的とした大規模な使節団を西域諸国に送った。一方、前108年に楼蘭(ろうらん)と姑師(こし)を攻撃、占領し、前104年と前102年にはフェルガナの大宛(だいえん)国に遠征軍を送った。
武帝が即位した当時の漢朝は、文帝、景帝時代の蓄積で、財政事情はきわめて豊かであった。しかし、外征による支出をはじめ、運河の掘鑿(くっさく)、黄河の治水、宮殿の築造などの大土木事業による支出も大きく、財政事情が急激に悪化し、国庫の増収を目的とした諸対策が必要となった。売官、売爵(ばいしゃく)、贖罪(しょくざい)、新貨幣の鋳造、商工業者に対する割高の財産税(算緡(さんびん))とその違反者に対する財産没収(告緡(こくびん))などが行われた。また商家出身の桑弘羊(そうこうよう)らを財政官僚に登用し、塩・鉄・酒の専売制、財貨の流通、物価の平準化を目的とした均輸法、平準法などの新財政政策を実施した。一方、遠征の継続や新財政政策は行政の厳しい引き締めを必要とし、御史大夫(ぎょしたいふ)張湯(ちょうとう)らの酷吏とよばれる官僚群を登用した。彼らは過酷で煩瑣(はんさ)な法規を整備し、冷酷に適用していっさいの批判を封殺し、また王朝との矛盾が表面化してきた豪族勢力を弾圧し、武帝の独裁的統治の体制確立を助けた。
前110年、武帝は泰山(たいざん)と梁父(りょうほ)で封禅(ほうぜん)の祭祀(さいし)を行い、天と地を祀(まつ)るこの神秘な儀式で、前漢朝極盛期の皇帝の絶対的権威の確立を世に示した。しかし晩年は、彼の樹立した大帝国の矛盾が内外で表面化し、危機的な状況が生まれた。とくに華北東方の諸地域で農民反乱の蜂起(ほうき)が続き、軍隊の鎮圧も酷吏の弾圧も十分な効果が得られないような事態が発生した。そして前91年には皇太子の巫蠱(ふこ)の乱が起こった。皇太子劉拠(りゅうきょ)が父武帝を呪咀(じゅそ)しているという疑惑を受けて挙兵し、長安城内で市街戦が起こり、皇太子は敗死した。前90年には匈奴遠征軍が壊滅し、将軍李広利(りこうり)は匈奴に降伏した。このような事情のなかで武帝は前89年に輪台(りんだい)の詔(みことのり)を出し、軍事遠征に明け暮れたことを後悔し、民政を重視すべきことを説いて、西域の輪台方面の屯田計画の中止を指示した。前87年、7歳の幼子劉弗陵(りゅうふつりょう)(後の昭帝)を皇太子と定め、霍光(かくこう)、金日磾(きんじつてい)、上官傑の3名に輔佐を遺嘱して死去し、茂陵に葬られた。
[影山 剛]
『吉川幸次郎著『漢の武帝』(岩波新書)』▽『影山剛著『漢の武帝』(教育社歴史新書)』
中国、北周第3代の皇帝(在位560~578)。姓名は宇文邕(うぶんよう)。孝閔(こうびん)帝を廃し明帝を殺した権臣宇文護(うぶんご)に擁立され、しばらく彼に政治をゆだねたが、572年に護を誅殺(ちゅうさつ)し、以後、積極的に統一策を進めた。575年に北斉(ほくせい)攻撃を開始して577年にこれを滅ぼし、続いて陳(ちん)軍に打撃を与えたが、突厥(とっけつ)遠征途上、病に倒れた。仏・道二教の排斥(三武一宗(さんぶいっそう)の法難の一)は、財産没収による国家財政への寄与という一面をももつ。
[窪添慶文]
中国,前漢の第7代皇帝。在位,前140-前87年。姓名は劉徹。古代帝国の最盛時期を出現させた専制君主。16歳で即位。即位当初は,竇(とう)太后(文帝の皇后,景帝の生母)の支持した道家黄老が優勢であった。董仲舒(とうちゆうじよ)の対策により儒教を国教化,官学化し,朝廷に五経博士を置くとともに,孝廉など郷挙里選の法を実施した。しかし,これらの政策については,疑問視する説もある。竇太后の死後,黄老刑名および百家の言をしりぞけ,朝廷に文学・儒者数百人を招くなど儒家進出の基盤を成立させた。しかし,当時の儒教は,根本に法術があり,それを儒教によって縁飾りした儒術と称されるものである。したがって,政情は法家の色彩が濃厚であり,張湯など酷吏の活躍を促した。
前代の呉・楚など有力諸侯王滅亡のあとをうけ,封建諸侯の勢力の削減を図った。推恩令を下して諸侯王の封地を分割して子弟を列侯とすることを認め,淮南(わいなん)王劉安や常山王劉賜を謀反を口実にして滅ぼした。列侯に対しては,宗廟の祭祀の際,酎酒,黄金の献上を定めた酎金律を厳格に適用していっきょに106人を廃絶した。封建諸侯の封地も中央政府派遣の郡守県令によって統治され,中央直轄の郡県と実質何ら変わらなくなった。また,天下を13州に区画し,刺史を派遣して地方政治を監察させるなど中央集権体制が確立することになる。丞相は従来は慣例として列侯のなかから選出されてきたが,これを改め布衣(庶民)出身の公孫弘を抜擢して丞相に任じた。これ以後,庶民出身の丞相が輩出することになるが,ほとんどが在任中に自殺または獄死している。年号を初めて定め,秦制の踏襲を廃し,太初元年(前104)に漢朝を以て正式に土徳とし,制度文物は五を以て規格し,四分暦にかえて司馬遷らが作成した太初暦を用い,正月を歳首とした。
対外的には,積極策に転じて夜郎,南越,西南夷,東越,衛氏朝鮮,昆明などを懐柔あるいは征服し,新郡を設置して領土を拡張した。武帝が最も意を注いだのは,高祖劉邦以来の宿敵匈奴である。大月氏と同盟を結んで匈奴を東西から挟撃しようとして張騫(ちようけん)を派遣した。彼の復命により西域諸国の事情がもたらされたが,大月氏にはその意志はなく漢朝単独で軍事行動を起こした。外戚の衛青,霍去病(かくきよへい)および李広利などを将軍に任じて征討に当たらせ,匈奴を莫北に追い払った。オルドスに新郡を置き,民を募って移住させ屯田を開いた。河西回廊に武威,張掖(ちようえき),酒泉,敦煌の4郡を設け,汗血馬を産するという西方の大宛(フェルガナ)を討って西域36国と通じ,渠犂(きより)や輪台などに屯田を置いた。
経済的には,農本抑商を方針とした。白渠などの水利工事をすすめ,漕運の便とともに関中の農地を拡大し,干害を防止した。商賈に対しては財産税を課し,土地所有を禁止した。たび重なる外征,建章宮や明光宮などの建設,宮廷の奢侈などによって財政難に陥ったため,塩,鉄,酒酤(しゆこ)の専売,桑公羊が立案した平準法・均輸法による官営の商業取引,貨幣の改鋳,売官売爵などを実施せざるをえなくなった。治世の末期には,人民は疲弊し,各地に農民反乱が起こった。社会不安と宮廷の権力争いとが結び付いて巫蠱(ふこ)の獄が起こり,衛皇后(衛青の姉)と戻(れい)太子は自殺した。武帝自身は神仙に傾き,過去の征伐を後悔し,代田法を普及させて穀粟の増収を図り,民力の回復につとめた。
執筆者:上田 早苗
中国,南朝梁(りょう)の初代皇帝。在位502-549年。姓名は蕭衍(しようえん)。南蘭陵(江蘇省常州市)の人。父蕭順之は南斉高帝の族弟で,創業の功臣。早くから文武両道にわたる教養と才幹で将来を嘱望され,竟陵王蕭子良の〈八友〉の一人に数えられた。斉末,北魏の侵攻に雍州襄陽(湖北省襄樊市)へ出陣,498年(永泰1),その鎮将となった。このころ,〈悪童天子〉東昏侯の暴政がはなはだしく,兄の蕭懿(しようい)もその犠牲とされると,幕府の属官および襄陽地方の豪族・土豪を結集するとともに荆州(湖南省)の軍団とも同盟,501年,東昏侯の非を責めて挙兵,進撃して建康を陥(おと)し,502年(天監1),禅譲方式によって梁王朝を開いた。
真冬でも早朝2時に起きて政務をとるなど,経世済民の意欲と責任感にあふれ,寛政をしいて疲弊した民生の回復につとめた。官吏登用策でも,士庶貴賤の弁別を明確にする一方で,円滑な国政運営を期するために,個人の才能と教養を重視する方針を打ち出して貴族層に自己革新をもとめ,あわせて官制改革を行って貴族制の再編を図った。試験による官吏登用は科挙制の先駆として注目される。510年代後半から,理想社会の実現を仏教に求めて熱烈な信者となった。多くの寺院を建立して大法会を催し,国家・祖先祭祀のお供えも果物などに変えて〈不殺生戒〉を実践,さらにたび重ねて〈捨身〉を行って皇帝大菩薩と称された。このような仏教への傾倒は,のちに〈南朝四百八十寺,多少楼台煙雨中〉とうたわれるような仏教文化の隆盛をもたらした反面,寛仁の政治を放縦に流すことになった。貴族層の実務忌避の風潮や側近の専権を黙認し,なかでも皇族の放恣を許したことは,昭明太子(501-531)の死後にその弟蕭統(のちの簡文帝)を立てて皇族の不満をよび起こしたこととあいまって,王朝滅亡の原因となった。
社会・経済の面でも,523年(普通4)の鉄銭鋳造が経済を混乱におとしいれ,農民層の分解と流亡をうながして社会不安が深刻化した。そして,東魏の叛将侯景の帰順をいったんは許しながら拒んだことから,548年(太清2)その逆襲を招いて建康は陥落,武帝は幽閉され,末期に求めた蜜も与えられず,〈荷荷〉と呼んで没した(侯景の乱)。諸学に造詣が深く,とくに儒学と仏教学に膨大な著述を残した。
執筆者:安田 二郎
中国,北周の第3代皇帝。在位560-578年。名は宇文邕(うぶんよう),字は羅突(鮮卑名)。宇文泰の第4子。兄の明帝が朝廷の実権を握る従兄の宇文護に弑されたのち,宇文護によって擁立された。武帝は隠忍自重して時を待ち,572年(建徳1)宇文護を誅して親政を実現した。道仏2教の教団を廃棄し,一方に通道観を設けて儒・仏・道三教を国家権力のもとで統一しようとした(三武一宗の法難)。それは堕落した教権を否定するとともに俗権の聖化を図るものであった。武帝における最大の政治課題は北斉征服にあり,そのため大規模な募兵によって府兵の軍隊を増強した。その際軍人という名称を侍官と改めたのは,府兵を皇帝直属の名誉ある戦士とみなしたことを意味する。節倹聡明な開明君主で,作戦時には兵士の先頭に立って戦った。576年北斉の晋陽を攻略,翌年首都鄴(ぎよう)に入城して華北全土を統一した。つづいて突厥(とつくつ)の制圧と江南の平定を計画したが,実行に至らずして病死した。この課題はやがて隋の文帝,唐の太宗によって実現される。
執筆者:谷川 道雄
中国,西晋の初代皇帝。在位265-290年。姓名は司馬炎。河内郡温県(河南省温県)の名族で,祖父の司馬懿(しばい),伯父の司馬師,父の司馬昭はいずれも魏の重臣。265年(泰始1),急死した父のあとをついで禅譲革命を続行して西晋王朝を開いた。過酷な皇族抑圧策が魏滅亡の要因となったことから,《周礼(しゆらい)》を理想に諸王の封建を行って国の基礎を固める一方,呉討伐の準備をおしすすめ,280年(太康1)呉主孫皓を捕虜として天下統一を達成した。その後も,平和国家の完成を目ざして,州や郡の常備兵を大胆に縮小するとともに,占田・課田法や戸調式など斬新な政策をくりひろげた。しかしまもなく,全国民の結婚を中止させて集めるなどした1万人にも及ぶ後宮の美女に溺れ,政治の実権を外戚にゆだねた。このことはただちに皇族の反発をよび起こし,暗愚の皇子司馬衷(のちの恵帝)を後継者としたこと,家柄本位の官吏登用のもとで不遇を強いられた下級士人の不満,漢人の圧迫に苦しむ異民族の反抗,さらには奢侈や朋党の社会風潮などとあいまって,西晋末大騒乱(八王の乱)の原因となった。
執筆者:安田 二郎
中国,南朝宋の初代皇帝。在位420-422年。姓名は劉裕。永嘉の乱で彭城(江蘇省徐州市)から京口(江蘇省鎮江市)へ移住した貧家の出身。漢の皇族の子孫と称した。文字も少し読めるだけで無頼の生活を送っていたが,〈孫恩・盧循(ろじゆん)の乱〉討伐に活躍して台頭,ついで404年(元興3)京口在鎮の北府の中堅将校を結集して桓玄(かんげん)を討ち,東晋王朝を再興して国家第一の軍閥に急成長した。対外的に,409年(義煕5)南燕,414年蜀,417年後秦を滅ぼして国域を広げ,内政でも,亡戸隠匿,土地兼併,山沢囲いこみなどを行う豪族・権門を厳しくとりしまって疲弊した民生の回復に力を注ぎ,413年には土断を行って国力の増強に大きな成果を収めた。その一方で,皇族や貴族など東晋派勢力を次々と抹殺し,420年(永初1),恭帝の譲りを受けて宋朝を開いた。即位後も,貴族の手中から軍事権を奪って,国政の中枢を皇族で固める政策を推しすすめ,東晋と比べて格段に強力な国家体制を築きあげ,続く南朝諸王の祖型となった。
執筆者:安田 二郎
中国,南朝陳の初代皇帝。在位557-559年。姓名は陳覇先(ちんはせん)。呉興郡長城県(浙江省長興県)の人。もとは潁川(えいせん)郡の名族と自称した。家柄は低く,油倉庫の小役人から梁の皇族蕭映の伝令となったとき,まじめな勤務を認められて蕭映の広州刺史赴任に随行し,広東,インドシナ北部の蛮族や土豪の反乱討伐に活躍して頭角をあらわした。侯景の乱がおこると,その地を固めたのち,550年(大宝1)兵3万を率いて北上,大都督の王僧弁(?-555)と同盟して侯景を平定,京口(江蘇省鎮江市)に鎮守した。しかしまもなく王僧弁が北斉と結んだために555年(紹泰1),急襲して殺し,建康(南京)の実権を握って敬帝を立てた。ついで三呉による杜龕(とがん)らの敵対勢力や,首都近郊まで侵入した北斉の大軍を破って建康の安泰を確保すると,557年(永定1),敬帝の譲りをうけて陳朝を開いた。在位1年半で病没し,各地に割拠する軍閥の平定は次の文帝にゆだねた。鮮卑の北斉軍を撃退して江南の独立を守ったことから,明末・清初の王夫之(船山)ら亡国の遺民と呼ばれる人々から高い評価を与えられている。
執筆者:安田 二郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
前156~前87.2.14
前漢第7代の皇帝劉徹(在位前141~前87)。充実してきた国力を背景に,内政では封国への統制を強めて皇帝の中央集権体制を確立し,外政では前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪(らくろう)等の4郡をおくなど,周辺諸国を平定して領土を拡大した。しかし連年の匈奴(きょうど)征討にともなう増税などで国内は疲弊した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…インドシナ〈中国化〉の重要な契機は経済的理由であった。前漢の武帝による南越国征服(前111)は,中国によるベトナム植民地支配の始まりであったが,武帝が北部ベトナムに交趾,九真,日南の3郡を置いてこの地に郡県制を及ぼした背景には,真珠,タイマイ,象牙など,ここにもたらされる南海の珍貨獲得に対する中国人の強い欲求の存在を見ることができる。ベトナムが10世紀に完全独立を達成するまでの1000年間,中国の植民勢力は中国の伝統的統治思想に基づく原住民教化に努力し,社会生活の広範な領域にわたって中国文化の受容を強制した。…
…中国,前漢武帝時代の将軍。武帝の衛皇后および将軍衛青の甥で,皇后の縁故により18歳で侍中となる。…
…前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。…
…中国,秦の始皇帝が前220年に首都咸陽(かんよう)の北西の甘泉山(陝西省淳化県)に築いた離宮の林光宮に始まる。漢の武帝が建元年間(前140‐前135)に高光宮,迎風館,通天台などを増築し,周囲19里(約7.7km),12宮,11台などを甘泉宮と総称した。別に山谷に沿って雲陽に至る周囲540里(約219km)の甘泉苑を設け,仙人,石闕(せきけつ),封巒(ほうらん),鳷鵲(しじやく)諸観など宮殿台閣100ヵ所以上があった。…
…天と地のまつり(郊祀(こうし))と祖先のまつり(宗廟(そうびよう))とは旧体制の中国において最重要の国家祭祀であった。后土のまつりも古代から行われたが,長らく欠けたままになっていたので,漢の武帝は山西省の汾陰(ふんいん)に后土祠を建てて復活させた。これ以後,場所や祭祀儀礼に異同はあるものの,歴代の皇帝によって執行されるようになった。…
…老荘は無為自然を理想とするが,政治的には自由放任の立場となって現れる。しかし漢も武帝の世になると,王朝の基礎も固まり,積極政策の必要も生じてきたので,ここに老荘から儒家への転換が行われ,儒学が王朝公認の官学に定められた。以後,歴代の王朝はこれに倣い,2000年にわたって儒教の支配が続くことになった。…
…もともとインドでは,貴賤僧俗を区別せずに斎食を布施して,大きな法会を営むことが多く,これをパンチャ・パリシャドPañca‐pariṣadと称し,中国では無遮会(むしやえ)と訳されていた。梁の武帝が527年(大通1)に行った無遮大会などが有名である。道教でも,その祭りは〈斎〉とか〈会(かい)〉とかの語でよばれる。…
…仏・法・僧の三宝に供養するため身を捨ててその奴隷となること。南朝の梁の武帝が数回にわたって同泰寺に捨身したことは有名。そのたびに皇太子や百官たちは巨額の財物をつんで皇帝の身をうけだし,あらためて即位の儀式が行われた。…
※「武帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加