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武帝 ブテイ

デジタル大辞泉の解説

ぶ‐てい【武帝】

[前156~前87]中国、前漢第7代の皇帝。在位、前141~前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦曽孫儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。
[464~549]中国、南朝の梁(りょう)の初代皇帝。在位502~549。廟号、高祖。姓名蕭衍(しょうえん)。南斉を滅ぼし、梁を建国。仏教史上での黄金時代を作ったが、侯景の乱にあい、争乱の中で病没。

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世界大百科事典 第2版の解説

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

前156‐前87
中国,前の第7代皇帝。在位,前140‐前87年。姓名は劉徹。古代帝国の最盛時期を出現させた専制君主。16歳で即位。即位当初は,竇(とう)太后(文帝の皇后,景帝生母)の支持した道家黄老が優勢であった。董仲舒(とうちゆうじよ)の対策により儒教を国教化,官学化し,朝廷五経博士を置くとともに,孝廉など郷挙里選の法を実施した。しかし,これらの政策については,疑問視する説もある。竇太后の死後,黄老刑名および百家の言をしりぞけ,朝廷に文学・儒者数百人を招くなど儒家進出の基盤を成立させた。

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

236‐290
中国,西の初代皇帝。在位265‐290年。姓名は司馬炎。河内郡温県(河南省温県)の名族で,祖父の司馬懿(しばい),伯父の司馬師,父の司馬昭はいずれも魏の重臣。265年(泰始1),急死した父のあとをついで禅譲革命を続行して西晋王朝を開いた。過酷な皇族抑圧策が魏滅亡の要因となったことから,《周礼(しゆらい)》を理想に諸王の封建を行って国の基礎を固める一方,討伐の準備をおしすすめ,280年(太康1)呉主孫皓を捕虜として天下統一を達成した。

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

363‐422
中国,南朝の初代皇帝。在位420‐422年。姓名は劉裕永嘉の乱彭城(江蘇省徐州市)から京口(江蘇省鎮江市)へ移住した貧家の出身。漢の皇族の子孫と称した。文字も少し読めるだけで無頼の生活を送っていたが,〈孫恩・盧循(ろじゆん)の乱〉討伐に活躍して台頭,ついで404年(元興3)京口在鎮の北府の中堅将校を結集して桓玄(かんげん)を討ち,東王朝を再興して国家第一の軍閥に急成長した。対外的に,409年(義熙5)南燕,414年蜀,417年後秦を滅ぼして国域を広げ,内政でも,亡戸隠匿,土地兼併,山沢囲いこみなどを行う豪族・権門を厳しくとりしまって疲弊した民生の回復に力を注ぎ,413年には土断を行って国力の増強に大きな成果を収めた。

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

440‐493
中国,南朝の第2代皇帝。在位482‐493年。姓名は蕭賾(しようさく)。高帝13歳のときの長子。宋末,江西・湖南両省方面に出鎮して勢力をたくわえ,王朝創立の一翼をになった。即位すると高帝の親臣を殺して旧臣で政権を固め,また側近を信任して厳明な法術政治を行った。北魏との関係も良好で,社会の安定がいわれているが,性来の奢侈好みに加えてその富国優先の政治は増税をもたらし,また戸籍欺濫民に対する厳罰は,486年(永明4)唐之の反乱をひきおこした。

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

464‐549
中国,南朝の初代皇帝。在位502‐549年。姓名は蕭衍(しようえん)。南蘭陵(江蘇省常州市)の人。父蕭順之は南斉高帝の族弟で,創業の功臣。早くから文武両道にわたる教養と才幹で将来を嘱望され,竟陵王蕭子良の〈八友〉の一人に数えられた。斉末,北魏の侵攻に雍州襄陽(湖北省襄樊市)へ出陣,498年(永泰1),その鎮将となった。このころ,〈悪童天子〉東昏侯暴政がはなはだしく,兄の蕭懿(しようい)もその犠牲とされると,幕府の属官および襄陽地方の豪族・土豪を結集するとともに荆州(湖南省)の軍団とも同盟,501年,東昏侯の非を責めて挙兵,進撃して建康を陥(おと)し,502年(天監1),禅譲方式によって梁王朝を開いた。

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

503‐559
中国,南朝の初代皇帝。在位557‐559年。姓名は陳覇先(ちんはせん)。呉興郡長城県(浙江省長興県)の人。もとは潁川(えいせん)郡の名族と自称した。家柄は低く,油倉庫の小役人から梁の皇族蕭映の伝令となったとき,まじめな勤務を認められて蕭映の広州刺史赴任に随行し,広東,インドシナ北部の蛮族や土豪の反乱討伐に活躍して頭角をあらわした。侯景の乱がおこると,その地を固めたのち,550年(大宝1)兵3万を率いて北上,大都督の王僧弁(?‐555)と同盟して侯景を平定,京口(江蘇省鎮江市)に鎮守した。

ぶてい【武帝 Wǔ dì】

543‐578
中国,北の第3代皇帝。在位560‐578年。名は宇文邕(うぶんよう),字は羅突(鮮卑名)。宇文泰の第4子。兄の明帝が朝廷の実権を握る従兄の宇文護に弑されたのち,宇文護によって擁立された。武帝は隠忍自重して時を待ち,572年(建徳1)宇文護を誅して親政を実現した。道仏2教の教団を廃棄し,一方に通道観を設けて儒・仏・道三教を国家権力のもとで統一しようとした(三武一宗の法難)。それは堕落した教権を否定するとともに俗権の聖化を図るものであった。

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大辞林 第三版の解説

ぶてい【武帝】

前156~前87) 中国、前漢の第七代皇帝(在位 前141~前87)。劉徹。中央集権的な郡県制を強化、儒教を公認した。匈奴きようどを外モンゴルに追って西域にシルクロードを開き、安南・朝鮮を征服、漢帝国の専制政治を確立した。
464~549) 中国、南朝の梁の初代皇帝(在位502~549)。蕭衍しようえん。南斉に代わり自立。学芸を奨励して貴族文化が興隆。仏教を信奉して財政を乱し、侯景の乱中に没した。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

世界大百科事典内の武帝の言及

【インドシナ】より

…インドシナ〈中国化〉の重要な契機は経済的理由であった。前漢の武帝による南越国征服(前111)は,中国によるベトナム植民地支配の始まりであったが,武帝が北部ベトナムに交趾,九真,日南の3郡を置いてこの地に郡県制を及ぼした背景には,真珠,タイマイ,象牙など,ここにもたらされる南海の珍貨獲得に対する中国人の強い欲求の存在を見ることができる。ベトナムが10世紀に完全独立を達成するまでの1000年間,中国の植民勢力は中国の伝統的統治思想に基づく原住民教化に努力し,社会生活の広範な領域にわたって中国文化の受容を強制した。…

【霍去病】より

…中国,前漢武帝時代の将軍。武帝の衛皇后および将軍衛青の甥で,皇后の縁故により18歳で侍中となる。…

【漢】より

…前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。…

【甘泉宮】より

…中国,秦の始皇帝が前220年に首都咸陽(かんよう)の北西の甘泉山(陝西省淳化県)に築いた離宮の林光宮に始まる。漢の武帝が建元年間(前140‐前135)に高光宮,迎風館,通天台などを増築し,周囲19里(約7.7km),12宮,11台などを甘泉宮と総称した。別に山谷に沿って雲陽に至る周囲540里(約219km)の甘泉苑を設け,仙人,石闕(せきけつ),封巒(ほうらん),鳷鵲(しじやく)諸観など宮殿台閣100ヵ所以上があった。…

【后土祠】より

…天と地のまつり(郊祀(こうし))と祖先のまつり(宗廟(そうびよう))とは旧体制の中国において最重要の国家祭祀であった。后土のまつりも古代から行われたが,長らく欠けたままになっていたので,漢の武帝は山西省の汾陰(ふんいん)に后土祠を建てて復活させた。これ以後,場所や祭祀儀礼に異同はあるものの,歴代の皇帝によって執行されるようになった。…

【中国思想】より

…老荘は無為自然を理想とするが,政治的には自由放任の立場となって現れる。しかし漢も武帝の世になると,王朝の基礎も固まり,積極政策の必要も生じてきたので,ここに老荘から儒家への転換が行われ,儒学が王朝公認の官学に定められた。以後,歴代の王朝はこれに倣い,2000年にわたって儒教の支配が続くことになった。…

【斎会】より

…もともとインドでは,貴賤僧俗を区別せずに斎食を布施して,大きな法会を営むことが多く,これをパンチャ・パリシャドPañca‐pariṣadと称し,中国では無遮会(むしやえ)と訳されていた。梁の武帝が527年(大通1)に行った無遮大会などが有名である。道教でも,その祭りは〈斎〉とか〈会(かい)〉とかの語でよばれる。…

【三宝の奴】より

…仏・法・僧の三宝に供養するため身を捨ててその奴隷となること。南朝の梁の武帝が数回にわたって同泰寺に捨身したことは有名。そのたびに皇太子や百官たちは巨額の財物をつんで皇帝の身をうけだし,あらためて即位の儀式が行われた。…

※「武帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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