中国、前漢末から新にかけての学者。劉向(りゅうきょう)の子。字(あざな)は子駿(ししゅん)。のち名を秀、字を穎叔(えいしゅく)と改める。幼少のころから好学の人として知られ、成帝のとき父とともに漢王室の図書整理に参加する。父の没後はこの事業を継いで『七略』を作成し完了した。『七略』そのものは亡(ほろ)んだが、『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)にそのまま取り込まれて今日に伝えられている。これは中国における経籍目録の最初のものである。歆はこの作業のなかから古文学を修得し、『左伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』などを公許の学問にしようとして古文顕彰運動をおこし、今文(きんぶん)派の儒者と激しく争った。当時の実力者王莽(おうもう)は以前、ともに黄門郎として勤務したこともあり、新王朝を興してのちは、歆を重用し国師の地位を与えた。新王朝の制度は『周礼(しゅらい)』に拠(よ)っていたので、古文学者としての歆に立法その他依拠するところが大きかったからである。しかし王莽に三子を殺されたのを恨み、謀反を企てて失敗し、自殺した。『漢書』に伝記がある。
[町田三郎 2016年1月19日]
『狩野直喜著『両漢学術考』(1964・筑摩書房)』▽『板野長八「災異説より見た劉向と劉歆」(『東方学会25周年記念論集』所収・1972・東方学会)』▽『銭穆「劉向・歆父子年譜」(『燕京学報7』所収・1929・燕京大学)』
中国,前漢末の学者。字は子駿。のち名を秀,字を頴叔と改める。沛(はい)(江蘇省沛県)の人。高祖の同父弟楚元王交の子孫,劉向(りゆうきよう)の第3子。若くして詩書に精通し,成帝のとき黄門郎となり中塁校尉にうつる。黄門郎のとき王莽(おうもう)が同僚であり以後王莽と親交がつづき,侍中,太中大夫,光禄大夫と歴任,新になると参謀として国師の地位を与えられた。成帝期に始まる宮中図書の校勘事業に父劉向と参画し,劉向の死後もそれを引きつぎ図書目録《七略》を著す。校勘事業の中で劉歆は,儒学の学派で《左氏伝》《毛詩》《周礼(しゆらい)》等をテキストとする〈古文学〉(古文)の価値を見いだし,当時学官に立てられていた〈今文学〉に代わり〈古文学〉を採用する運動をする。王莽時代,《周礼》に基づく政治が行われ,〈古文学〉が採用されたのは劉歆の影響により,後世,《周礼》《左氏伝》が劉歆により偽作されたとの説が出るのはその経緯に基づく。のち王莽打倒の反乱が起こり劉歆は王莽殺害を企てるが失敗,自殺する。
執筆者:冨谷 至
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…このめぐりは火に勝つのは水,水に勝つのは土……という順序になっているので,これを五行相克(そうこく)という。この理論は秦に利用されたが(周の火徳から秦の水徳へ),のちに漢の劉歆(りゆうきん)によって図2のような五行相生説(水は木を生み,木は火を生み……)が提唱され,歴代各王朝は相生説に従って自己の徳を定めた。たとえば,北方を異民族に奪われた南宋朝が最初の年号を建炎(炎を建つ)としたのは,宋(火徳)の再建という願いがあったからである。…
…前漢初期,前後して展開した〈諸子〉の学術を,陰陽・儒・墨・名・法・道徳の〈六家(りくか)〉に要約したのは,司馬遷の父,司馬談の〈六家の要指〉である。さらに前漢後期,すでに国教となって儒家の尊奉した経書は〈六芸(りくげい)〉として別格に扱われ,父業を継いだ劉歆(りゆうきん)が宮廷図書を〈七略〉の類目によって整理したが,それを記録した《漢書》芸文志の〈諸子〉部門は,〈六芸〉からはずされた儒家の書(53家)を筆頭に,道(37家)・陰陽(21家)・法(10家)・名(7家)・墨(6家)と従横(12家)・雑(20家)・農(9家)と小説(15家),の10家者流189家に分類された。うち〈六芸〉を補いうるものは,小説家をはぶいた9家,つまり〈九流〉とされた。…
…また当時の経学は経術ともよばれて政治の実際と深く結びついており,ことに《春秋公羊伝》は天下統一の理念を強く示しているために重視され,漢代の春秋学は実際は公羊学を意味していた。ところが前漢の末ごろ,劉歆(りゆうきん)が《春秋左氏伝》をはじめ古文経書を重んじ,王莽(おうもう)が政権をにぎって,古文経書を博士官の教科書として以後,公羊学は衰え,後漢時代に何休が《春秋公羊伝解詁》を著したものの,学界では訓詁を重んずる古文学が主流となった。 その後,清代中ごろに至り,まず常州(江蘇省)の荘存与(1719‐88)が《春秋公羊伝》を顕彰し,ついで劉逢禄が何休の公羊学を重んじ《左氏伝》は劉歆の偽作だと指摘し,さらに龔自珍(きようじちん),魏源は,現実を遊離した考証学的学風を批判し,当面の崩壊しつつある王朝体制を救うために,何休の公羊学にもとづいて〈変〉の観念を強調した。…
…しかし四分暦と同じく,各年の月日を配当するにとどまっていた。ところが5年ころの前漢末に劉歆(りゆうきん)は太初暦を増補し,惑星の位置計算や日月食の予報計算を加えた。こうして中国暦は初めて広く日,月,五星(五つの惑星)の現象を取り扱うものとなった。…
…漢の武帝の太初1年(前104)に太初暦が施行されたが,その暦法は前1世紀末の劉歆(りゆうきん)によって補修されて三統暦と名づけられ,王莽(おうもう)の新,後漢で用いられ紀元84年(元和1)まで使用された。三統暦では夏(か)を天統,殷を地統,周を人統とした三正循環説によって理論づけして,暦法上の法数に思想的な意味を与えた。…
…両晋南北朝時期にまとめられた作品。作者として漢の劉歆(りゆうきん),晋の葛洪(かつこう),梁の呉均などの名が挙げられているが,いずれも確かな証拠はない。この作品の基礎には前漢時代の都でのできごとをのべる講釈のような文芸があって,それが文人の手で文字に定着されたものであろう。…
…基準を具体的に示す標準器を作るといった段階では,科学者,技術者の働きが顕著になる。中国の黄鐘管も標準器の一種と解されるが,その製作には,古い時代の(真偽の定かでない)泠綸(れいりん),漢代の途中の新の時代の劉歆(りゆうきん)などの学者が参画したと伝えられている。 劉歆の考案に帰せられているもう一つの標準器は,円筒形の銅製枡で,劉歆銅斛と名付けられた(斛の字については既述した)が,後に嘉量,漢嘉量,新嘉量などと呼ばれ,台北の故宮博物館に収められている。…
…中国,前漢の成帝のとき,数名の学者の協力をえて宮廷の秘府の蔵書の校定に従事した劉向(りゆうきよう)が,ひとつの書物ごとに篇目を個条書きにし内容をつまんで作った解題。劉向の子の劉歆(りゆうきん)はそれを《七略》とよぶ図書目録にまとめた。〈輯略〉〈六芸略〉〈諸子略〉〈詩賦略〉〈兵書略〉〈術数略〉〈方技略〉から構成された《七略》は,〈輯略〉をのぞいて《漢書》芸文志に取り入れられている。…
※「劉歆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新