日本歴史地名大系 「太田興野」の解説 太田興野おおたごうや 新潟県:豊栄市太田興野[現在地名]豊栄市太田・朝日(あさひ)町福島(ふくしま)潟の北岸に位置し、北は佐々木上(ささきかみ)新田。字松影(まつかげ)(避病院山)からは縄文後期土器・無柄石鏃・勾玉、法花鳥屋(ほつけどや)からは縄文中期の土器や石斧、土師器・須恵器などが出土。享保一五年(一七三〇)の阿賀野川松(まつ)ヶ崎(さき)切落しと翌年の大洪水によって福島潟周辺は開拓可能となり、当村もその後開発され、同一九年には検地を受け、検地野帳(斉藤家文書)が作られた。元文二年(一七三七)にも検地を受けたが、その時の検地帳(豊栄市役所蔵)によれば、田畑合計一三七町九反余・分米三五八石余で、村内には検地奉行であった加藤友左衛門らの給人地もあった。宝暦四年(一七五四)幕府領となり、同六年の高三五九石、家数二四八・人数一千二二五(豊栄市役所文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by