日本歴史地名大系 「豊栄市」の解説 豊栄市とよさかし 面積:七七・〇五平方キロ蒲原(かんばら)平野の中央北寄りにあり、西は阿賀野川を挟んで中蒲原郡横越(よこごし)村と新潟市、北は新潟市と北蒲原郡聖籠(せいろう)町、東は新発田(しばた)市と北蒲原郡豊浦(とようら)町、南は北蒲原郡笹神(ささかみ)村・京(きよう)ヶ瀬(せ)村に接する。市域西端を阿賀野川が北流し、その自然堤防上に市内としては比較的古い集落が並ぶ。現在わずかに残る福島(ふくしま)潟から新井郷(にいごう)川が流れ出し、市域中央部を西流して新潟市へ流入する。駒林(こまばやし)川が京ヶ瀬村から北流し、新井郷川に注ぐ。駒林川と阿賀野川の自然堤防との間の水田地帯中央を用排水路として本(ほん)溝が通る。市域北端を新新発田(しんしばた)川が西流する。市域中央部を国鉄白新線が通り、北域を国道七号が横断する。市の中心は葛塚(くずつか)であるが、昭和三〇年(一九五五)三町村合併により新しい町が成立するに際し、豊栄町と名付けた。その由来はかつて豊田(とよた)庄として発足し、豊かな田園に栄えていく夢を託した町名である。〔原始・古代・中世〕市域のほとんどは近世中期まで島見前(しまみまえ)潟・福島潟の湖沼やその周辺の広大な水冠草生地であったため、歴史を物語る遺物や史料を欠く。島見前潟と福島潟との間に隆起していた砂丘と思われる鳥屋(とや)や木崎(きざき)・樋(ど)ノ入(いり)から縄文時代晩期の遺物が出土した。鳥屋遺跡は揚北(あがきた)地方における縄文時代終末期の標式遺跡。その後文献上で当市域にかかわるものはしばらく見当らない。文永二年(一二六五)一二月一三日の大見政家譲状(大見水原氏文書)に「水原条西黒河・舟原境事」として「西 限菅淵、河下飯野次柳」と記され、飯野(いいの)は当市域の里飯野(さといいの)・山飯野(やまいいの)をさすと思われ、白河(しらかわ)庄に属した。白河庄は現北蒲原郡安田(やすだ)町・笹神村・水原(すいばら)町・京ヶ瀬村を庄域とし、城氏との関連も深い庄園といわれる。城氏没落後は伊豆の豪族平姓大見氏が地頭となって入庄したと思われる。〔近世〕初期の新発田藩の諸史料、正保国絵図などにみえる村名は里飯野・山飯野・堀田(ほりだ)・長戸呂(ながとろ)・大迎(おおむかえ)・太子堂(たいしどう)・三ッ屋(みつや)・高森(たかもり)・島見(しまみ)・横江(よこえ)(横井か)などで、ほとんどが阿賀野川右岸の自然堤防上で、島見・横江は砂丘上に立地した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by