日本歴史地名大系 「奥田新田」の解説 奥田新田おくだしんでん 愛知県:西尾市奥田新田[現在地名]西尾市奥田町小栗(おぐり)新田地先に築かれた干拓新田。北は小栗新田に接し、東は平坂(へいさか)入江をもって中根(なかね)村と境し、南は三河湾に臨み、西は矢作川をもって前浜(まえはま)新田(現碧南市)と境する。面積一〇七ヘクタール。初め文政一二年(一八二九)平原(ひらはら)村の庄屋勘右衛門が小栗半七から新開築立権を譲り受け、開発計画に取掛ったが、近隣の村々の反対で着工できず、天保一一年(一八四〇)に死亡、翌年東端(ひがしばた)村(現安城市)の深津与三郎が新開工事を請負い、反対の村々を説得、同一四年着工した。 奥田新田おくだしんでん 茨城県:下館市奥田新田[現在地名]下館市奥田小貝(こかい)川右岸にあり、西は下高田(しもたかだ)村。開発の時期、開発者については二説がある。天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(中村家文書)には「高八拾壱石四斗八升弐合、内田方八石壱升・畑方七拾三石四斗七升弐合、右村名主幸治郎申上候、当村新田之儀は小栗村持添之内秣草取場ニ御座候処、私先祖幸治郎義開発奉願上、則御取調之上、寛保元酉年開発被仰付、神尾若狭守様御掛りニ而延享元子年奥田新田と唱、御高入相成候已来私壱人持ニ而相続罷在」とあり、小栗(おぐり)村(現真壁郡協和町)の持添地が寛保元年(一七四一)に開発許可され、延享元年(一七四四)に高入りとなったとする。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by