姉崎村(読み)あねがさきむら

日本歴史地名大系 「姉崎村」の解説

姉崎村
あねがさきむら

[現在地名]市原市姉崎あねさき青葉台あおばだい

今津朝山いまづあさやま村の南西に位置し、西は江戸湾に面する。房総往還が通り、継場で姉崎あねがさき湊が置かれていた。仲町なかちよう浜町はまちよう新町しんちよう本町ほんちようのほか、大道おおみち仲町河岸なかちようがし新宿しんじゆく御休所おやすどなどの地名がある。中世は姉崎あねがさき保とみえ姉崎あねさき神社領と密接な関係をもつが、同社の祭神島穴しまあな神社祭神と姉弟神とも夫婦神ともいわれ、地名由来の所伝がある。地内の河崎かわさきは天正四年(一五七六)と推定される三月二八日の北条氏規朱印状(山本文書)に北条氏の半手所領としてみえ、北条氏および敵対する里見氏が重視した湊津であった。同一九年七月の旗本栗生氏宛知行書立朱印状写(御感証文集)に「上総姉崎近辺青柳之郷」とある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に姉ヶ崎村とみえ、高五一五石。正保国絵図でも姉ヶ崎で同高。元禄一四年(一七〇一)当時は旗本本多領(本多四公日記)。寛文四年(一六六四)当時は甲斐徳実藩領(「伊丹勝政領知目録」寛文朱印留)元禄郷帳では高一千六〇〇石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では姉ヶ崎村として高一千七〇四石余(誤記か)で家数四〇一、安房北条藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android