朝日日本歴史人物事典 「安富元家」の解説
安富元家
室町幕府管領細川政元の内衆。新兵衛尉。筑後守。文明10(1478)年摂津国に下向,春日社領を半済としようとする国人の動きを制止している。同12年3月,前年来政元を捕らえていた一宮宮内大輔らを丹波国に討ち滅ぼし,延徳3(1491)年8月,将軍足利義材(義稙)の近江出陣に際して政元が近江守護に補せられると,近江守護代となった。明応1(1492)年3月,六角高頼党の襲撃を織田敏定,浦上則宗らと共に撃退。翌2年閏4月,政元の命で上原元秀らと共に河内国に発向し,将軍義材を捕らえ,畠山政長を正覚寺に攻め滅ぼした。同4年2月讃岐守護代を兼ねたが,同国国人の反乱鎮定に発向した牟礼兄弟が倒されたため,自ら同国に向かおうとして政元に制止され,守護代辞任を申し出ている。文亀1(1501)年5月,政元は元家に政務を執らせようとしたが,これを辞退。翌2年2月,政元は将軍足利義高(義澄)との間に隙を生じ,元家邸に屏居して政務を放棄している。永正3(1506)年元家は,政元の招きにより阿波から上洛したその養子澄元を自邸に迎え入れている。翌4年6月の政元暗殺後,澄元と,同じく政元の養子澄之の間に抗争が起こり,その混乱のなか同年8月ごろ敗死,あるいは没落したものと思われる。
(森田恭二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報