宮下琢麿(読み)ミヤシタ タクマ

20世紀日本人名事典 「宮下琢麿」の解説

宮下 琢麿
ミヤシタ タクマ

明治〜昭和期の教育者,移民事業家 信濃海外協会幹事



生年
明治11(1878)年6月8日

没年
昭和27(1952)年9月29日

出生地
長野県安曇郡七貴村(現・明科町)

学歴〔年〕
長野県師範学校〔明治33年〕卒

経歴
教師として活躍し、七貴小学校校長在職中には長野県内の小学校で初めて校歌を作った。明治42年南佐久郡視学に転じ、のちには小県郡視学や長野県視学・宮城県視学を歴任。6年に教育界から退いて製糸会社の片倉組に入社し、同社田中製糸工場支配人を務めた。9年同社の副社長今井五介の秘書として東京に移転したばかりの本社に転勤。この頃から今井と共に海外発展事業に興味を持つようになり、11年信濃海外協会を設立して幹事となった。次いで12年には今井を会長として海外協会中央会を発足させ、以後ブラジルや北米・ジャワなどの各地を視察するなど移民事業の発展に尽力。また、栄養改善運動にも携わり、月刊誌「栄養の栞」の編集に当たった。晩年は長野に帰った。著書に「邦人活躍の南洋」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android