宮古路国太夫(3代) みやこじ-くにたゆう
?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
初代宮古路薗八(そのはち)の門人。はじめ宮古路世代太夫を名のる。宝暦12年(1762)3代国太夫をつぎ,同年豊後掾(ぶんごのじょう)を名のったともいう。国太夫の名は明和5年(1768)までみえる。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内の宮古路国太夫の言及
【常磐津林中】より
…のち養母と不和になり,86年離縁,林中と改名。3世仲助と組み地方巡業をするが失敗,宮古路国太夫と改めて盛岡にこもる。96年9世市川団十郎に懇望されて上京,再度林中を名のり,翌年2月歌舞伎座で《関の扉(せきのと)》を語り好評を博す。…
【宮古路豊後掾】より
…享保(1716‐36)初年ごろにはすでに〈半中節〉の名は高く,[一中節]に《小春髪結の段》《根曳の門松》《道行三度笠》などを残している。1722年(享保7)春ごろ一中節から独立,宮古路国太夫半中と改め,宮古路節,国太夫節の名を高めた。やがて31年には宮古路豊後と名のり,江戸へ下り,ついで名古屋に滞在,そのとき実際の心中事件をモデルにした《睦月連理
(むつまじきれんりのたまつばき)》を作り,これを持って34年ふたたび江戸へ下り,大好評を博した。…
※「宮古路国太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 