浄瑠璃の太夫。生没年不詳。初世都太夫一中の門人で,はじめ都国太夫半中と称した。享保(1716-36)初年ごろにはすでに〈半中節〉の名は高く,一中節に《小春髪結の段》《根曳の門松》《道行三度笠》などを残している。1722年(享保7)春ごろ一中節から独立,宮古路国太夫半中と改め,宮古路節,国太夫節の名を高めた。やがて31年には宮古路豊後と名のり,江戸へ下り,ついで名古屋に滞在,そのとき実際の心中事件をモデルにした《睦月連理𢢫(むつまじきれんりのたまつばき)》を作り,これを持って34年ふたたび江戸へ下り,大好評を博した。同年暮れに豊後掾を受領して橘盛村と名のった。そのころから彼の髪型(文金風)や長羽織までが熱狂的に喜ばれた。36年(元文1)から豊後節の宅稽古禁止令が出ていたが,江戸に心中や家出が流行した責任をも押しつけられ,39年9月に劇場での上演も法度になった(実はすべて豊後掾個人に対する弾圧としか考えられない点が多い)。豊後掾はその前に京都へ帰っていたが,掾号を返上,40年9月1日没と伝える。享年81歳ともいい,38歳情死説もある。豊後掾の語り口がいかなるものであったかよくわからないが,〈河東裃外記袴,半太羽織に義太股引,豊後可愛いや丸裸〉という落首から想像されるように,気取りや飾りを取り去った,とくに強く訴える力を持っていたらしい。語り物を読む限りでは,風俗紊乱や心中謳歌は認められない。彼はむしろ,多くの弟子を育て,のちに豊後系浄瑠璃の祖となった点に大きな足跡を残した。
→豊後節
執筆者:竹内 道敬
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浄瑠璃(じょうるり)の太夫(たゆう)で豊後節の始祖。京都の人。一中(いっちゅう)節の都太夫一中の門弟で都国太夫半中といい、のち独立して宮古路豊後を名のる。1734年(享保19)名古屋の興行では、その地で起こった心中未遂事件を脚色上演した『睦月連理(むつまじきれんりのたまつばき)』で好評を博した。同年江戸へ下り、豊後掾を受領(ずりょう)、橘盛村(たちばなのもりむら)を名のり、上記狂言を演じて大当りをとった。翌35年の中村座での上演ではつややかな曲節が爆発的な人気をよぶとともに、彼の文金風と名づけられた結髪や、長羽織や衣服の仕立て、着ぶりが流行した。そのため在来の江戸浄瑠璃系の連中やその支援者たちの反感を買い、ついには時の官憲の忌諱(きい)に触れて風俗壊乱の科(とが)で36年(元文1)に町奉行(ぶぎょう)から、「宮古路浄瑠璃太夫共芝居興行の儀は苦しからず、自宅にて稽古(けいこ)相成らず」との達しがあった。そこで、翌年京都へ帰り、上方(かみがた)の芝居に出勤して没した。実子(または養子)の若太夫が2世を継ぎ、宮古路世代太夫が国太夫を経てのちに3世を名のったとも伝えられる。
[林喜代弘]
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…また一中節3派の特色をいえば,都は派手で,菅野は素朴,宇治は“はんなり”とした味がある。 初世都一中の弟子に都半中があり,1722年(享保7)ごろ独立して宮古路国太夫半中と改め,さらに豊後掾(宮古路豊後掾)となった。その門から常磐津節,富本節,清元節,新内節,宮薗節などが生まれたので,それら豊後系浄瑠璃の祖の位置にある。…
…たまたまこの時期は江戸文化の革新時代で,上方の文化が江戸に流入した。1736年(元文1)に宮古路豊後掾が江戸に下って語ったところ人気を集めた。扇情的な曲節が幕府の忌むところとなりただちに禁止されるが,やがてその系列から常磐津節,富本節が,さらにくだって清元節が派生して,いずれも流行した。…
…辰松風とは,享保年間(1716‐36)辰松八郎兵衛という人形遣いの名人の結った髻で,髻の刷毛先が短く,先端が急こう配に折れ曲がっていて,根を高く巻きあげその芯に針をさして固定したともいう。文金風とは,上方浄瑠璃の名人宮古路豊後掾の考案と伝えられる。流行したのは元文年間(1736‐41)で,幕府によって文金を鋳造した時期にあたったところからこの名が生まれ,根の高い急こう配の髻は辰松風と似ているが,二つ折れ形式からは趣が少し異なり,髷尻が出ず,垂直に頭上に立ち,髻の芯には竹の串を用いたといわれる。…
…肥前節,半太夫節,河東節を江戸節と総称する。 また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。…
…俗称駿河屋文右衛門。位牌商であったが,1716‐26年(享保1‐11)ごろ宮古路国太夫(のちの宮古路豊後掾)の門弟(のちに養子)となり,宮古路文字太夫(一説に前名を右膳とする)と名のる。豊後掾は32年から34年正月ごろまで名古屋滞在ののち江戸に下る。…
…ともに1865年(慶応1)柳糸亭三楽編著刊。《都の錦》(角書〈音曲道しるべ〉)は宮古路豊後掾の秘伝を初世常磐津文字太夫が書きとめ,写本として伝わっていたもので,浄瑠璃の語り方についての指導に重点がおかれている。《老の戯言》(角書〈三味線早稽古〉)は常磐津節の旋律型について具体的に説明したものであり,このほうが資料的価値が高い。…
※「宮古路豊後掾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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