宮崎忠次郎(読み)みやざき・ちゅうじろう

朝日日本歴史人物事典 「宮崎忠次郎」の解説

宮崎忠次郎

没年:明治3(1870)
生年天保3(1832)
明治時代,富山藩新川郡一帯でおこったばんどり(蓑の一種)騒動の指導者。明治2(1869)年10月12日~11月3日の間に,貢租の軽減と公正な徴収,大庄屋に当たる十村・肝煎公選,諸物価の引下げ,肥料の配給などを要求して,小百姓を中心に2万5000人余が参加して十村宅など42軒を打ちこわした。加賀藩の銃卒隊の出動で鎮圧された。発頭人の忠次郎は負傷して多くの者と共に逮捕された。忠次郎が斬罪に処せられたほかは,牢死者2名を除いて全員出獄した。これは彼が全責任を負ったためか,といわれている。明治13年,新川郡塚越村(中新川郡立山町)の彼の旧宅跡に宮崎忠次郎久明塚と彫られた義民顕彰碑が建立された。莚旗に「忠次郎大明神」と大書されたということは,彼が生神として一揆を指導したということか。

(吉武佳一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮崎忠次郎」の解説

宮崎忠次郎 みやざき-ちゅうじろう

1832-1870 明治時代の農民
天保(てんぽう)3年生まれ。越中新川郡塚越村(富山県立山町)の人。明治2年年貢減免などを要求して同郡一帯におきた一揆(いっき),ばんどり(蓑(みの)の一種)騒動の首謀者として捕らえられる。3年10月27日金沢で処刑された。39歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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