ワーグナー(読み)わーぐなー(英語表記)Rudolf Wagner

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワーグナー」の意味・わかりやすい解説

ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)
わーぐなー
Wilhelm Richard Wagner
(1813―1883)

音楽を中心としたドイツの総合的な芸術家。作曲家、指揮者、詩人(彼の歌劇の台本はすべて自作)、歌劇の改革者、文化哲学者、音楽祭主催者を兼ねる超人的存在であったワーグナーは、19世紀ドイツのロマン的な歌劇を、総合芸術作品としてのいわゆる楽劇に止揚した。楽劇そのものはもちろん、その音楽技法と思想は後世の作曲家に多大な指針を与えるとともに、ワーグナーの芸術観と世界観は、哲学者や作家をはじめとする広範な文化人に、多彩な影響を投げかけた。

[中野博詞]

生涯

演劇愛好家で警察署書記を勤めた父フリードリヒと、製パン業者の娘であったヨハンナを母として、1813年5月22日ライプツィヒに生まれる。3人の兄、5人の姉があり、リヒャルトは第9子である。しかし、父フリードリヒはワーグナー誕生後6か月で死亡し、以前から親交があった俳優・詩人・画家を兼ねたガイヤーLudwig Geyer(1779―1821)の保護を受け、やがて母がガイヤーと再婚し、またワーグナー自身が一時ガイヤー姓を名のったことから、ガイヤーを実父とする説もある。ガイヤーがドレスデン宮廷歌劇場の俳優兼台本作者であったために、ワーグナーは4歳で舞台に立ち、8歳で楽才を示すが、少年時代においては、13歳の年に悲劇『ロイバルト』を書き始めたように、まず文学と演劇に熱中する。ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』を熱愛していたワーグナーは、ベートーベンの作品を聴くに及んで音楽家になることを決意し、18歳でライプツィヒ大学に入学するとともに、聖トマス教会カントル(合唱長)のウァインリヒChristian Theodor Weinlig(1780―1842)に作曲理論を学ぶ。19歳の年には交響曲第一番を作曲、初演する一方、未完の歌劇『婚礼』に着手。

 20歳を数える1833年から1839年に至る時期は、遍歴時代ともよばれるように、各地を訪ねながら歌劇作曲家としての道を切り開いてゆく。まず、兄が歌手を勤めるウュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者に就任して、歌劇を実習するとともに、歌劇『妖精(ようせい)』の創作に没頭する。1834年にはマクデブルクを本拠とするベートマン歌劇団の指揮者となり、やがて妻となる女優ミンナ・プラーナーと恋に陥る。1836年には歌劇『恋愛禁制』を完成、初演し、ミンナと結婚。翌1837年ケーニヒスベルク歌劇場、そしてリガ歌劇場と指揮者としての遍歴を続ける。

 大都市での成功を夢みたワーグナーは、1839年(26歳)から1842年にかけてパリに滞在。マイヤベーアの推薦があったにもかかわらず、自作上演の希望はことごとく裏切られ、ワーグナー夫妻は精神的にも経済的にも苦境に陥る。しかし、不屈のワーグナーは『ファウスト序曲』、歌劇『リエンツィ』、そして『さまよえるオランダ人』を次々に完成してゆく。一方、生活のために行った文筆活動では、ワーグナーの小説を代表する『ベートーベンまいり』(1840)、そして『パリでの最後』(1841)をはじめ、数々の評論が生み出される。

 ドレスデン宮廷歌劇場における『リエンツィ』初演で開幕する1842年(29歳)から1849年の時期は、ドレスデンで安定した生活が繰り広げられる。『リエンツィ』の大成功は、翌1843年の同劇場における『さまよえるオランダ人』の初演、さらに同劇場第二指揮者就任を導き出す。歌劇では『タンホイザー』と『ローエングリン』が完成され、演奏史に残るベートーベンの第九交響曲の名指揮が行われる。しかし、ドレスデンに起こった革命運動に参加したワーグナーに逮捕状が発せられ、1849年にやむなくスイスに亡命する。70年にわたるワーグナーの生涯の中間点となる1849年という年は、創作においても、生涯においても、一大転換の年となり、ワーグナーの前期と後期を区分する。

 前期の歌劇から後期の楽劇への移行期にあたる1849年(36歳)から1864年の時期は、おもにスイスが生活の場となり、亡命時代ともよばれる。チューリヒを本拠としたワーグナーは、やがて実現される楽劇の理論的基礎づけとなる総合芸術論を、『芸術と革命』(1849)、『未来の芸術作品』(1849)、『歌劇と戯曲』(1951)の3著作によってまず確立。同時に舞台祭典劇『ニーベルングの指環(ゆびわ)』四部作の作詞の大半を1852年に完成。作曲は1853年から始まる。この大作の作曲中の1854年にショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読み、大きな影響を受け、1857年にはワーグナーの後援者の若き夫人、マティルデ・ウェーゼンドンクMathilde Wesendonck(1828―1902)と恋に陥るが、翌1858年には悲劇的な結末となり、ベネチアに逃避する。この悲恋から『トリスタンとイゾルデ』の構想が生み出され、四部作の作曲を中断して、1859年にルツェルンで完成される。経済的な貧困から慌ただしい指揮旅行を続けるワーグナーは、『タンホイザー』のパリ上演失敗など不運が重なり、絶望の極にあった1864年に、18歳の若きバイエルン王ルートウィヒ2世から温かく招聘(しょうへい)される。

 1864年(51歳)から1872年にかけては、異常なまでに熱狂的なワーグナーの信奉者であったルートウィヒ2世の保護のもとに、ミュンヘンとスイスのルツェルンの郊外トリープシェンの恵まれた環境のなかで、ワーグナーが自己の理想を着々と実現していった時期である。ルートウィヒ2世は、ワーグナーに『ニーベルングの指環』を完成させるべく、作曲料と住居の提供をはじめ、ミュンヘン全市をあげての反対にもかかわらず、巨額の援助を惜しみなく続ける。ワーグナーは、弟子のハンス・フォン・ビューロー一家をミュンヘンに招き、リストの娘であるビューロー夫人コジマCosima(1837―1930)と事実上の夫婦となり、ワーグナーの最初の妻ミンナの死(1866)後、正式に結婚する。長年の懸案であった『トリスタンとイゾルデ』の理想的な初演を皮切りに、『ニュルンベルクマイスタージンガー』と『ニーベルングの指環』の前半の2曲が、ミュンヘン宮廷歌劇場で初演される。一方、著作でも『指揮について』(1869)、『ベートーベン』(1870)と力作が誕生する。また、自叙伝『わが生涯』は、ルートウィヒ2世の要望によりコジマに口述筆記(1865~1880)させたものだが、未完に終わった。そして、祝祭劇場を建設すべく、1872年4月バイロイトに移住する。

 ワーグナーの長年の夢がバイロイトの丘に実現する1872年(59歳)から1883年に至る時代は、まさに完結の時代である。ワーグナー59歳の誕生日に、祝祭劇場の定礎式がルートウィヒ2世への『忠誠行進曲』の演奏で始まり、夕べにはベートーベンの第九交響曲が彼の指揮で演奏される。建築費用調達のために、各地にワーグナー協会を設立。1874年には、ルートウィヒ2世の援助で私宅ウァーンフリートが建築され、11月21日に台本着手以来実に26年を費やした四部作『ニーベルングの指環』を完結。1876年8月に祝祭劇場の杮落(こけらおと)しとして、四部作の完全初演。1880年に論文「宗教と芸術」を執筆し、2年後に舞台神聖祭典劇『パルジファル』を完成、初演。1883年2月13日、ベネチアに客死する。ワーグナーの歌劇と楽劇は、死後もコジマをはじめ、長男ジークフリートSiegfried(1869―1930)、その子ウィーラントWieland(1917―1966)らの努力によって、毎年夏にバイロイト音楽祭として、祝祭劇場で上演され続けている。

[中野博詞]

様式と総合芸術論

ワーグナーは声楽と器楽のさまざまな曲種にも作品を残しているが、中心はあくまでも舞台作品にある。『妖精』から『ローエングリン』に至る前期の諸作品においては、ウェーバーとベートーベンの影響から出発し、ドイツ・ロマン的歌劇を一歩一歩高め、後期の総合芸術作品としての楽劇の様式を準備してゆく。

 後期の冒頭を飾る『芸術と革命』『未来の芸術作品』『歌劇と戯曲』の3著作において、後期作品の指針となる総合芸術論を展開する。演劇を最高の芸術とするワーグナーは、完全な人間の表現こそ芸術であるとし、人間の表現能力である肉体、感情、悟性は、舞踏、音楽、文芸の三つの芸術分野においてそれぞれ発揮される、と分析する。そして、人間が肉体、感情、悟性の三位(さんみ)一体であるのと同様に、三つの芸術分野が一体となったときに、本来あるべき真の芸術になる、とワーグナーは主張し、同時に芸術は個人の趣味によるものではなく、民衆に宗教的満足を与える世界観の表現でなければならない、と強調する。したがって、ワーグナーにとっては、一つの芸術分野だけでは十分でなく、また各芸術分野の単なる集合体でもないのである。ワーグナーの総合芸術作品とは、芸術が本来の姿であったギリシア悲劇への帰還であり、各芸術分野の融合のうえに成立する芸術なのである。こうした総合芸術作品の根本思想から、ワーグナー独特の楽劇様式が案出される。題材は神話が好ましく、音楽と文芸の結合のために、徹底したライトモチーフ(指導動機)の使用、アリアとレチタティーボの区分を排したシュプレッヒゲザング(歌と語りの中間)と無限旋律(段落感のない旋律)、半音階的手法の導入などの手段が編み出される。『ニーベルングの指環』の第一作『ラインの黄金』に始まる後期作品は、こうした総合芸術作品の様式で貫かれている。なお後期作品は一般に楽劇とよばれるが、ワーグナー自身は、この名称は誤解を招く、として好まなかった。

[中野博詞]

『渡辺護・柴田南雄・内垣啓一編『ヴァーグナー大全集』全5巻(1979・中央公論社)』『山田ゆり訳『ヴァーグナーわが生涯』(1986・勁草書房)』『高木卓訳『ベエトオヴェンまいり他三篇』(岩波文庫)』『蘆谷瑞世訳『ドイツ音楽の精神――ベートーヴェン』(1985・北宋社)』『渡辺護著『新版リヒャルト・ワーグナーの芸術』(1987・音楽之友社)』『渡辺護著『リヒャルト・ワーグナー――激動の生涯』(1987・音楽之友社)』『高辻知義著『ワーグナー』(岩波新書)』『C・ヴェステルンハーゲン著、三光長治・高辻知義訳『ワーグナー』(1973・白水社)』『H・マイヤー著、天野晶吉訳『リヒャルト・ワーグナー』(1983・芸術現代社)』『トーマス・マン著、小塚敏夫訳『ワーグナーと現代』(1971・みすず書房)』『フィッシャー・ディースカウ著、荒井秀直訳『ワーグナーとニーチェ』(1976・白水社)』



ワーグナー(Rudolf Wagner)
わーぐなー
Rudolf Wagner
(1805―1864)

ドイツの解剖学者、生理学者、動物学者。エルランゲンとウュルツブルクの大学で医学を学び、さらにパリのキュビエの下で比較解剖学を修めた。エルランゲン大学教授を経て、ゲッティンゲン大学生理学教授。神経の発生学的研究が知られ、弟子のマイスナーGeorg Meissner(1829―1905)とともに皮膚の知覚神経終末(ワーグナー-マイスナー小体)を発見した。精神を脳の活動の産物であるとするK・フォークトの唯物論に対して、精神と物質の二元論の立場から大論争を展開した。E・H・ウェーバー、プルキンエ、C・F・W・ルートウィヒ、ベルツェリウスら当代の著名な医学者の執筆になる全6巻の『生理学事典』(1842~1853)の編集を行った。

[澤野啓一]


ワーグナー(Adolf Heinrich Gotthilf Wagner)
わーぐなー
Adolf Heinrich Gotthilf Wagner
(1835―1917)

ドイツの政治経済学者。エルランゲンに生理学の教授の息子として生まれる。ゲッティンゲンおよびハイデルベルク大学で法律学および政治経済学を学んだ。ウィーン大学やハンブルク大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1870年にベルリン大学教授となり、以後46年間にわたり政治経済の講座を担当した。

 ワーグナーの業績のもっとも評価された分野は財政学であるが、1877~1901年に出版された『財政学』Finanzwissenschaft全4巻は、学問的にも実践的にも強い影響を及ぼした。ワーグナーの財政学は、官房学的な狭義の財政の概念を拡張し、経済政策や社会政策と財政政策との統合を目ざすものであった。租税政策も単なる財源の調達のみでなく、再分配を達成するための手段として位置づけられ、今日の累進税制度の基礎を築いたといえる。

 社会思想家としては、国家社会主義、保守的社会主義などの名称でよばれた社会思想を提唱した。基本的には私有財産制と民間部門における分権的意思決定を容認したが、個人主義的原理と社会主義的原理を融和させるために、経済の特定部門の所有、保護関税、累進的所得税、累進的相続税などの政策により、社会・経済分野において国家が積極的な役割を演ずることを求めた。ヒトラーの全体主義的国家社会主義と19世紀プロイセンを舞台としたワーグナーの保守的社会主義との間には基本的な差異が存在するが、前者の台頭とともに、国家社会主義提唱の先駆者として、また国家社会主義者として、賞賛と批判の対象とされた。

[林 正寿]


ワーグナー(Otto Wagner)
わーぐなー
Otto Wagner
(1841―1918)

オーストリアの建築家。生地ウィーンの工科大学を経て、ベルリン建築学院、ウィーン大学建築学部に学び、1894年ウィーン大学教授。初めの作品はルネサンス様式が色濃く、ついでアール・ヌーボー様式が強く反映するものであったが、ウィーン郵便貯金局(1904~06)に至って、その著書『近代建築』(1895)に主張する理論が作品のうえで実現することになった。彼の理論の根底には、新時代の創造は新時代に即応した「必要」から生まれるべきだという考え方があり、新時代の建築目的・材料・構造から導かれる新しい様式が、この郵便貯金局内部に体現する。すなわち、鋼鉄とガラスの総合、明快な空間性、控え目な装飾などに、彼の説く「近代建築」が決定するのであった。その他の代表作に、ウィーン・カールス広場停車場(1894~97)、シュタインホフ教会堂(1904~07)などがある。晩年には建築の社会的機能を重視して、いくつかの都市計画案を残している。

[高見堅志郎]

『H・ゲレーツェッガー、M・パイントナー著、伊藤哲夫他訳『オットー・ワーグナー――ウィーン世紀末から近代へ』(1984・鹿島出版会)』


ワーグナー(Moritz Friedrich Wagner)
わーぐなー
Moritz Friedrich Wagner
(1813―1887)

ドイツの生物学者。エルランゲン、ミュンヘンの各大学に学んだ。のちに世界各地を旅行し、各地域における動物相の相違と地理的障害との関係について考察し、初めは自然選択の作用に対する生物の移住の効果を説いたが、その後、自然選択の作用をほとんど無視して地理的隔離を重視する隔離説を提唱した。この考えはワイスマンらによって批判された。主著に、没後の1889年に出版された『地理的隔離による種の起源』がある。

[八杉貞雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ワーグナー」の意味・わかりやすい解説

ワーグナー
Wagner, (Wilhelm) Richard

[生]1813.5.22. ライプチヒ
[没]1883.2.13. ベネチア
ドイツの作曲家,音楽理論家。音楽,劇,文学の融合による総合芸術を目指し,ヨーロッパ音楽に一大変革をもたらした。パリ放浪,革命運動と亡命生活,人妻との悲恋,バイエルン国王との交際など波乱に富む生涯をおくり,ロマン主義,ギリシア悲劇,ショーペンハウアーの哲学などを背景に,示導動機 (→ライトモチーフ ) ,無限旋律を駆使し,大胆な不協和音の使用や,大規模な管弦楽法による楽劇を創作。その作曲手法は国境を越えて多大な影響を与えた。主作品は『タンホイザー』 (1845) ,『トリスタンとイゾルデ』 (57~59) ,『ニーベルンゲンの指輪』 (52~76) ,『パルジファル』 (82) など。主著『未来の芸術作品』 Das Kunstwerk der Zukunft (50) 。

ワーグナー
Wagner, Otto

[生]1841.7.13. ペンツィング
[没]1918.4.11. ウィーン
オーストリアの建築家。最初古典的な作風を志したが,1890年代にアール・ヌーボーに共鳴し,伝統的様式を否定し,材料,構造,目的,美的立場から新しい建築を主張。 1894年からウィーン美術アカデミーの教授となり,後進を指導した。門下からゼツェッションの中心人物となった J.オルブリヒや J.ホフマン,A.ロースが出た。『近代建築』 Moderne Architektur (1895) の著書がある。主な作品にウィーンのマジョリカ・ハウス (98~99) ,カールスプラッツ駅 (99~1900) ,郵便貯蓄銀行 (04~06) ,シュタインホーフ精神病院の聖堂 (05~07) などがあり,傑作が多い。

ワーグナー
Wagner, Adolph

[生]1835.3.25. エルランゲン
[没]1917.11.8. ベルリン
ドイツの経済学者,政治家。 1868~69年フライブルク大学,70~1917年ベルリン大学教授。 1873年歴史学派の経済学者 L.ブレンターノや G.シュモラーらと「社会政策学会」を創設。 77年脱退して政界に入り,78年 A.シュテッカーらとキリスト教社会党を結成。 82~85年下院議員,1910~17年上院議員をつとめ,F.ラサールの流れをくむ国家社会主義の立場に立った土地改革や社会政策を推進。いわゆる講壇社会主義右派の代表的人物。主著『政治経済学の基礎』 Grundlegung der politischen Ökonomie (2巻,1876) ,『財政学』 Finanzwissenschaft (4巻,77~1901) 。

ワーグナー
Wagner, Peter Joseph

[生]1865.8.19. トリール近郊キュレンツ
[没]1931.10.17. フリブール
ドイツの音楽学者。ストラスブール大学,さらにベルリンで学んだのち,1893年スイスのフリブール大学講師,のち同大学教授,さらに同大学総長となった。 1901年グレゴリオ聖歌協会を大学内に設置し,聖歌研究の国際的権威となり,教皇付きグレゴリオ聖歌審議会委員や国際音楽学会会長を務めた。主著『グレゴリオ聖歌旋律入門』 Einführung in die gregorianischen Melodien (I1895,II1905,III1921) 。

ワーグナー

ワグネル」のページをご覧ください。

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