おもなお雇い外国人(読み)おもなおやといがいこくじん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「おもなお雇い外国人」の意味・わかりやすい解説

おもなお雇い外国人
おもなおやといがいこくじん

日本の近代化の過程においてお雇い外国人の果たした役割はきわめて大きい。明治年間を通じて明治政府が雇用した外国人は3000人前後に達するといわれるが、民間の会社・学校なども多くの外国人を雇用しており、その総数は明らかでない。ここではその一部を紹介する。

 *印は本事典中に本項目として掲載してある人物を示す。


アトキンソン* Robert William Atkinson (1850―1929)
 イギリスの化学者。1874年(明治7)東京開成学校(東京大学の前身)化学教師に着任。分析化学、有機化学、冶金(やきん)学などを講義。実地学習も重視し、日本の化学の振興に大きく寄与した。また在日中、日本酒の醸造、青銅鏡を研究。1881年帰国。

アンチセル Thomas Antisell (1817―1893)
 アメリカの鉱山技師。開拓使の設置に伴い、1871年(明治4)地質工作舎密(せいみ)鉱山長兼教頭に着任、開拓使顧問ケプロンの指揮で道内調査を行った。鉱業、農業に関する諸改革案を提唱、また教育機関の充実、室蘭(むろらん)開港などを含む札幌開府計画など広い分野にわたる意見を述べた。1874年大蔵省紙幣寮に移り、約2年間、紙幣用インキの研究・製造にあたった。1876年帰国。

イング John Ing (1840―1920)
 アメリカのメソジスト派教会の宣教師。1874年(明治7)弘前(ひろさき)の東奥義塾の教師となる。英語、理学、化学、博物、数学、史学を担当。リンゴの苗木を青森にもたらすなど産業上の貢献も多い。1878年帰国。

イングランド John England (1822ころ―1877)
 イギリスの鉄道技師。1870年(明治3)工部省の設置に伴い、建築副役となる。ロシアおよびイギリス植民地での鉄道建設の経験を生かし、新橋―横浜間および大阪―神戸間の測量、新橋―横浜間鉄道の架橋改築や複線工事を監督。日本で死去。

ウィリス* William Willis (1837―1894)
 イギリスの外科医。1861年(文久1)イギリス公使館付医員として来日。官軍傷兵の治療に従事、また横浜の軍病院や医学所で治療や教育を行った。明治政府のドイツ医学の採用により、鹿児島に移り、同地の医学校で教鞭(きょうべん)をとった。1881年(明治14)帰国。

ウェルニヒ A.L.Agathon Wernich (1843―1896)
 ドイツの医学者。ホフマンの後任として1874年(明治7)来日。東京医学校(東京大学の前身)で内科学、婦人科学を講義。1876年帰国。ベルリンおよびケスリンの衛生官として活躍するとともに『法医学季刊誌』の主幹を務めた。「日本の脚気(かっけ)に関する臨床的観察」(1876)など多数の論文や著書がある。

ウォートルス* Thomas James Waters (1842―1898)
 イギリスの建築技師。幕末から明治初期にかけて、薩摩(さつま)藩依頼の集成館機械工場をはじめ、大阪造幣寮、東京竹橋近衛(このえ)兵営などを設計。1872年(明治5)大火で焼失した東京・銀座の復興にあたり、総れんが街計画をたてた。1877年ころ離日。

エアトン* William Edward Ayrton (1847―1908)
 イギリスの電気工学者。1873年(明治6)来日。工部大学校(東京大学工学部の前身)の電信・理学教授として、電信、電灯電力、電力輸送、さらに広範な電気学を講義。1878年帰国。著書に『実用電気学』がある。

エッケルト Franz Eckert (1852―1916)
 ドイツの音楽家。1879年(明治12)海軍軍楽隊教師として来日。音楽取調掛、宮内省雅楽課、陸軍軍楽舎教師を歴任、軍楽隊演奏、管弦楽合奏を教授した。翌1880年『君が代』楽譜制定顧問となり、吹奏楽用の編曲を行った。1899年離日。

エンデ* Hermann Ende (1829―1907)
 ドイツの建築家。1887年(明治20)来日。臨時建築局に勤め、帝国議会議院などの官庁の集中的建設計画に参画。また自費による日本人職工のドイツ派遣などを計画したが、1890年同局廃止により実現しなかった。1891年帰国。

オルドリッチ Arthur Stanhope Aldrich (1839/1840―1908)
 イギリスの会計士。1869年(明治2)明治政府の鉄道建設に伴い、1871年、書記長兼会計長に着任。鉄道資材購入の事務、諸規定の起草、雇用外国人の給与事務に携わる。1890年解任。

カーギル William Walter Cargill (1813―1894)
 イギリスの銀行員。1872年(明治5)鉄道差配役となり事務全般を指揮統率。1877年帰国。

カッテンディーケ* Ridder Huijssen van Kattendijke (1816―1866)
 オランダの軍人。1857年(安政4)幕府注文の軍艦ヤパン号(のち咸臨丸(かんりんまる))を率い来日。海軍伝習所で海軍戦略、艦砲射撃などの訓練・実施を重視した教育に携わる。一行中に医師ポンペ、技術者ハルデスHendrik Hardes(1815―1871)らがいた。1859年帰国。

カペレッティ Giovanni Vincenzo Cappelletti (1843―1887)
 イタリアの建築家。工部美術学校の創設に伴い、1876年(明治9)来日。予科で基礎教育に携わる。1879年以降、工部美術学校から工部省営繕局に移り、ついで陸軍省に勤めて、遊就館や参謀本部の設計を担当。1885年帰国。

ギュリック John Thomas Gulick (1832―1923)
 アメリカのキリスト教組合派教会の宣教師。1862年(文久2)来日。生物学に通じ、1878~1879年(明治11~12)同志社英学校で進化論を講義。すでにモースによって日本に紹介されていた進化論を認めながらも、生命起源の問題を批判した。1899年帰国。

キヨソーネ* Edoardo Chiossone (1832―1898)
 イタリアの銅版画家。ドイツのドンドルフ会社で日本の新紙幣の製作に従事。1875年(明治8)来日、大蔵省紙幣寮に勤務。紙幣、切手の原版製作を担当。第2回内国勧業博覧会に銅版画を出品、また明治天皇や政府要人の肖像画を描くなど美術活動を行う。日本で死去。

ギールケ Hans Paul Bernhard Gierke (1847―1886)
 ドイツの解剖学者。1876年(明治9)デーニッツの後任として東京医学校解剖学教師として着任。中枢神経系を研究するとともに、日本に関する民族学資料を多数収集。1881年帰国。

ギルバート George Miles Gilbert
 生没年不詳。イギリスの電信技師。1869年(明治2)来日。同年、東京―横浜間、翌1870年、大阪―神戸間などの電信架設工事に従事。息子A・E・ギルバートも来日し、父子とも日本の電信創業に尽くした。1878年帰国。

クラーク* William Smith Clark (1826―1886)
 アメリカの教育者。1867年マサチューセッツ農科大学学長となる。1876年(明治9)札幌農学校初代教頭として来日。日本の教育界、キリスト教界に多大の影響を与えた。1877年札幌農学校を去るにあたって残したことばBoys,be ambitious.は当時の若者の心のともしびとなった。

クラーク John Washington Clark
 生没年不詳。アメリカ人。1874年(明治7)来日。長崎局で外国郵便業務を指導。1875年の外国郵便の開始、在長崎イギリス・フランス郵便局撤去により解任。1880年帰国。

グリフィス William Elliot Griffis (1843―1928)
 アメリカの教育者、宗教家。1870年(明治3)来日。福井藩校明新館、大学南校で化学を教え、東京開成学校化学科創設に尽くす。1874年帰国。著書に日本研究書『皇国』がある。

グロース Prosper Gambert Gross (1820―1881)
 フランスの法律家。1873年(明治6)来日。横浜の各国領事館の弁護士を務め、1876年警視庁顧問となる。外国人との係争事件の処理、職員に対してフランス治罪法・刑法の教育を行い警察制度の整備に尽くした。日本で死去。

クロフォード Joseph U.Crawford (1842―1924)
 アメリカの土木技師。1878年(明治11)開拓使の建築兼土木顧問として来日。運炭のため幌内(ほろない)から江別太(えべつぶと)までの鉄道敷設に携わった。1881年退職、帰国。

ケプロン* Horace Capron (1804―1885)
 アメリカの農政家。アメリカ連邦農務局長官を務める。1871年(明治4)開拓使顧問として来日。道内調査を行い、大農経営の採用、農業試験所や農学校の設立、林業・漁業の工業との結合、鉱山開発に外国資本の導入などを軸とする開拓構想をたてた。1875年帰国。

ケーベル* Raphael von Koeber (1848―1923)
 ロシア生まれのドイツの哲学者、音楽家。1893年(明治26)来日。帝国大学で哲学およびギリシア語・ラテン語を講義。日本の哲学界に影響を及ぼした。1898年より東京音楽学校に出講し、ピアノ奏法や西洋音楽史を教え、ピアニストとして演奏会も開催。日本で死去。著書に『哲学要領』がある。

コワニー* François Coignet (1835―1902)
 フランスの鉱山技師。明治政府雇用外国人科学者第一号。1867年(慶応3)来日。生野(いくの)鉱山の開発調査に従事。1877年(明治10)帰国。

コンドル* Josiah Conder (1852―1920)
 イギリスの建築家。1877年(明治10)来日。工部大学校および東京大学工科大学で建築学を教えた。一方、建築設計事務所を開き、洋風建築を導入した旧帝室博物館、鹿鳴(ろくめい)館、ニコライ堂などを設計、明治時代の建築界に影響を及ぼした。日本で死去。

サイル Edward W.Syle (1817―1890)
 イギリス生まれの教育家。1868年(明治1)イギリス領事館付仮牧師となる。日本アジア協会設立に尽くし、1874年から1879年まで東京開成学校および東京大学で哲学、歴史学を講義。1880年離日。

サバチエ Paul Amédée Ludovic Savatier (1830―1891)
 フランスの医師。1866年(慶応2)横須賀(よこすか)製鉄所(のち横須賀造船所)付医官として来日。内外人の健康管理と治療のかたわら日本の植物を研究。1876年(明治9)帰国。帰国後『日本植物目録』を出版。

サマーズ* James Summers (1828―1891)
 イギリスの中国語・日本語学者。1873年(明治6)東京開成学校教師として来日。日本で初めて英文学を講義。新潟英語学校、大阪英語学校、札幌農学校で教鞭(きょうべん)をとる。1882年、札幌農学校教師を解任後、東京築地(つきじ)居留地で英語塾(欧文正鵠(せいこく)学館)を開く。なお来日前、海外で初めての日本字新聞『大西新聞』を発刊。日本で死去。

サン・ジョバンニ Acchile San Giovanni
 生没年不詳。イタリアの画家。工部美術学校画学科教師フォンタネージの後任として1880年(明治13)来日。解剖学を教科に取り入れ、人体研究を重視した教育を行った。作品に『工部卿(きょう)山尾庸三像』『婦人三絃弾奏図』などがある。1883年帰国。

シェパード Charles Shepherd (?―1875)
 イギリスの土木技師。1870年(明治3)工部省設置に伴い、建築副役となる。新橋―横浜間の鉄道敷設工事を指導。1873年同線の複線化および六郷川鉄橋の建設計画をたてたが、竣工(しゅんこう)をみずに日本で死去。

シーボルト Alexander Georg Gustav von Siebold (1846―1911)
 ドイツの外交官。P・F・シーボルトの長男。1878年(明治11)外務省雇いとなり、在ベルリン公使館に勤務。条約改正に伴う関税法規などの諸制度やドイツの国情調査にあたる。

シャノアーヌ Charles Sulpice Jules Chanoine (1835―1915)
 フランスの陸軍軍人。1866年(慶応2)幕府軍近代化のための軍事教官団団長として来日。歩兵・砲兵・騎兵の訓練にあたった。団員のなかに、榎本武揚(えのもとたけあき)の率いる幕府海軍に参加した砲兵指導教官ブリュネJules Brunet(1838―1911)らがいた。幕末の内乱で訓練は中止され、1868年帰国。

シャービントン Thomas R.Shervinton (1827ころ―1903)
 イギリスの土木技師。1873年(明治6)工部省の建築技師として雇用。京都―敦賀(つるが)間の鉄道敷設に伴う測量を実施、またシェパードの後を継いで新橋―横浜間の工事を監督。1877年ボイルの後任として京都―神戸間の鉄道工事を主管、同年大阪停車場内に工技生養成所を開所した。

シャン Theodore Shann (1850―1878)
 イギリスの鉄道技師。1871年(明治4)建築助役として雇用。橋梁(きょうりょう)架設工事技術に長じ、六郷川鉄橋架設工事などに従事、若くして日本で死去。

シャンド Alexander Allan Shand (1844―1930)
 イギリスの財政官。1872年(明治5)大蔵省紙幣頭附属書記官となる。大蔵省官吏や第一国立銀行行員に簿記などの事務技術を教えるとともに、日本初の銀行監査の実施など銀行事務全般について進言し、その改善に尽くした。著書に『銀行簿記精法』(1873)がある。1878年帰国。

ジュリ Léon Dury (1822―1891)
 フランスの臨床医。1862年(文久2)来日。領事館員となる。長崎広運館、京都仏学校、東京開成学校などでフランス語を教える。京都在住時の1873年(明治6)ジャガード織機購入の仲介をとり、西陣(にしじん)の機業近代化に尽くした。1877年帰国。

シュルツェ Emil August Wilhelm Schultze (1840―1924)
 ドイツの外科医。リスターの防腐法をドイツにもたらした人。ミュラーの後任として1874年(明治7)来日。東京医学校で外科学を講義。1878年に帰国したが、翌1879年に再来日、1881年までその任にあった。

ショイベ Heinrich Botho Scheube (1853―1923)
 ドイツの内科医。1877年(明治10)来日。京都府療病院で治療にあたる。熱帯病学の権威で、在日中、脚気(かっけ)、寄生虫、日本人の栄養などについて研究。1882年帰国。

スクリバ* Julius Carl Scriba (1848―1905)
 ドイツの外科医。1881年(明治14)来日。東京大学医学部で外科学・皮膚科学・眼科学などを講義。日本軍隊の戦時外科、軍陣衛生に貢献。病を得て、日本で死去。

スコット Marion McCarrell Scott (1843―1922)
 アメリカの教育家。1871年(明治4)来日。大学南校および翌1872年開校の東京師範学校で教鞭(きょうべん)をとり、とくに初等教育における教科書の整備、学級を単位とした集団教授法の紹介など師範教育の基礎を築いた。1875年東京英語学校(1877年に東京大学予備門と改称)の英語教師となり1881年まで在職し、帰国。

スティーブンズ Durham White Stevens (1851/1852―1908)
 アメリカの外交官。1883年(明治16)より在米日本公使館に勤務。1884~1885年外務卿(きょう)秘書官となり対アメリカ政策に従事。1904年日本政府の要請で朝鮮の外交顧問に就任、対朝鮮政策を担当。朝鮮人の反感を買い、サンフランシスコで射殺された。

ストーン William Henry Stone (1837―1917)
 イギリス出身の電信事業指導者。1872年(明治5)工部省書記官として来日。1885年逓信(ていしん)省に移り、電信事業指導顧問。電信従事員の養成、海外電信会社との交渉など電信行政の基礎を築いた。日本で死去。

ダイアック John Diack (1828―1900)
 イギリスの土木技師。1870年(明治3)工部省建築副役として来日。新橋―横浜間の鉄道敷設のための測量に従事。1883年、京都―大阪間、大阪―神戸間の鉄道敷設の測量を実施。横浜で死去。

ダン Edwin Dan (1848―1931)
 アメリカの酪農指導者。1873年(明治6)来日。東京の第三官園で農業教師を務め、1876年開拓使に加わり、真駒内(まこまない)牧牛場、新冠(にいかっぷ)牧場、札幌西部の牧羊場などの指導監督に従事、畜産改良の普及とともに酪農の基礎を築いた。1883年開拓使の廃止により、以後、駐日外交官、石油会社取締役支配人などを務め日本にとどまった。日本で死去。

チェンバレン* Basil Hall Chamberlain (1850―1935)
 イギリスの言語学者、日本学者。1873年(明治6)来日。海軍兵学寮、海軍兵学校で英語を教え、1886年から帝国大学で日本語および言語学を講義。古典からアイヌ語・琉球(りゅうきゅう)語まで幅広い日本言語学を研究。1911年(明治44)離日。著書に『日本事物誌』『琉球語の研究』などがある。

ディットリヒ Rudolf Dittrich (1861―1919)
 オーストリアの音楽家。1888年(明治21)東京音楽学校(東京芸術大学の前身)技術監督者として来日。日本の音楽教育を学校教員養成から音楽家育成へ転換させた。また『小学唱歌集』の和声付け、祝祭日唱歌の制定に貢献。1894年帰国。

デニソン Henry Willard Denison (1846―1914)
 アメリカの外交官。1880年(明治13)外務省の万国公法副顧問となり外交政策全般を指導。おもに日清(にっしん)・日露戦争、朝鮮併合、日英通商条約改定などに関与。東京で死去。

デーニッツ Wilhelm Dönitz (1838―1912)
 ドイツの解剖学者。ミュラーの具申で1873年(明治6)来日。東京医学校で解剖学を講義。3年の任期後、警視庁で法医学を教えた。1879年、佐賀医学校で教鞭(きょうべん)をとり、1886年帰国。ベルリン大学や伝染病研究所部長を歴任。

デ・レーケ Johannes De Rijke (1842―1913)
 オランダの土木技師。1873年(明治6)来日。全国の主要河川の改修計画の立案、指導にあたった。低水工事とともに上流の土砂流出に注目、砂防工事を施すなど土木事業に貢献した。1901年(明治34)帰国。その後、中国の揚子江(ようすこう)の航路改良工事に携わった。

ナウマン* Edmund Naumann (1854―1927)
 ドイツの地質学者。1875年(明治8)東京開成学校の初代地質学教師として来日。地質学実習旅行を教育課程に組み入れ、日本の地質学の基礎を築いた。地質調査所設立の建議を行い、自ら新設の地理局地質課に移り地質調査に携わった。1885年帰国。

バスチャン Edmond Auguste Bastien (1839―1888)
 フランスの建築技術者。1866年(慶応2)来日。横須賀製鉄所(1871年に横須賀造船所に改称)造船兼製図職工として勤務するかたわら、富岡製糸場の設計および工事監督に携わった。横浜で死去。

パテルノストロ Alessandro Paternostro (1852―1899)
 イタリアの法律家。1889年(明治22)司法省法律顧問として来日。1891年の大津事件、1892年の品川弥二郎(しながわやじろう)らの衆議院議員選挙干渉事件などに進言するなど多くの法律問題に関与、また明治法律学校(明治大学の前身)で教鞭(きょうべん)をとり法学者養成に貢献した。1892年帰国。

ハラタマ Koenraad Wouter Gratama (1831―1888)
 オランダの化学者。1866年(慶応2)長崎精得館教師として来日。化学研究所、分析窮理所、開成所、舎密(せいみ)局で理化学を教える。1871年(明治4)帰国。

バルツェル Franz Baltzer (1857―1927)
 ドイツの土木技師。1898年(明治31)逓信(ていしん)省工務顧問として来日。高架鉄道の建設に従事。1903年満期免職、同年帰国。

バルトン William K. Burton (1855―1899)
 イギリスの建築技術者。1887年(明治20)帝国大学工科大学の衛生工学教師として来日。衛生学を講義するとともに東京市の上下水道を設計。また工学に造詣(ぞうけい)深く、1890年「凌雲(りょううん)閣」を設計した。同大学満期解任後、内務省衛生局長後藤新平の依頼で台湾の台北市の上下水道計画に携わり、日本で死去。

パンペリー* Raphael Pumpelly (1837―1923)
 アメリカの地質学者。幕府の鉱山開発のため、1862年(文久2)鉱山技師ブレーキWilliam P. Blake(1826―1910)とともに来日。北海道の地質、鉱脈を調査するかたわら、採掘法、溶掘法およびダイナマイト爆破法などを教えた。1863年離日。

ピゴット Francis Taylor Piggott (1852―1925)
 イギリスの法律家。1888年(明治21)来日。内閣顧問となり、ロエスレルの指導による憲法草案の細部の整備に携わった。1891年帰国。

ヒルゲンドルフ* Franz Martin Hilgendolf (1839―1904)
 ドイツの動物学者。1873年(明治6)東京医学校予科の博物学教師として来日。農業昆虫学者練木喜三(ねりききぞう)(1850―1910)らが教えを受けた。在日中、多数の魚類、貝類を採集。1876年帰国。

ファン・ドールン* Cornelis Johannes Van Doorn (1837―1906)
 オランダの土木技術者。1872年(明治5)土木寮長工師(技師長)として来日。利根川・江戸川の改修工事の計画立案のため全流踏査したほか、猪苗代(いなわしろ)湖の安積(あさか)疎水工事の設計など治水事業に貢献。1880年帰国。

フェノロサ* Ernest Francisco Fenollosa (1853―1908)
 アメリカの東洋美術史家。1878年(明治11)東京大学文学部政治学教師として来日。政治学、財政学、哲学などを講義。1884年岡倉天心らと「鑑画会」を創立した。1886年岡倉天心とともに美術教育調査のため渡欧、翌1887年東京美術学校(東京芸術大学の前身)が設置された。フェノロサは美術教育の基本として、日本美術伝来の手法を基礎としてこれを発展させていくことを主張した。1890年帰国。1896年に再来日し、1901年帰国。著書に『美術真説』『東洋美術史綱』などがある。

フォンタネージ* Antonio Fontanesi (1818―1882)
 イタリアの画家。トリノの王立美術学校教授。工部美術学校の設立に伴い、1876年(明治9)来日、画学科教師となる。絵画の目的を「天然物・人造物を模写するにあり」として、そのために実地の勉強と、幾何学、遠近法、解剖学などの理論的研究の両者が必要であると力説、またモデルを使っての人体デッサンを初めて実施した。1878年帰国。

ブスケ Albert Charles Du Bousquet (1837―1882)
 フランスの法律家。1867年(慶応3)フランス軍事教官団の一員として来日。1871年(明治4)左院に雇用され、不平等条約改正のための法律・裁判規則改正案を作成。また徴兵制による常備軍制の導入、憲法草案作成に寄与。日本で死去。

ブライアン Samuel M. Bryan (1847―1903)
 アメリカ出身の郵便事業指導者。1873年(明治6)駅逓(えきてい)寮職員となり、1877年万国郵便条約加盟など外国との郵便交換条約の折衝に携わり、日本の外国郵便業務の基礎を固めた。1882年帰国。

ブラントン* Richard Henry Brunton (1841―1901)
 イギリスの鉄道技師。1868年(慶応4)灯明台(とうみょうだい)築造方首長として来日。26基の灯台を建設。また日本の電信事業の創始にあたり、技術者の雇用や機械類の輸入を助け、1869年(明治2)神奈川灯台役所―横浜裁判所間の日本初の官用電信開始に貢献した。1876年帰国。

フルベッキ* Guido Fridolin Verbeck (1830―1898)
 オランダ生まれのアメリカの宣教師。1859年(安政6)来日。長崎の済美館、佐賀藩の致遠館で教鞭(きょうべん)をとる。門下から大隈重信(おおくましげのぶ)らの人材を輩出。1869年(明治2)文部省雇いとなり、明治政府の教育顧問として政治面、教育面に貢献。1887年解任。東京で死去。著書に『日本宣教史』がある。

ページ Walter Finch Page (1843―1929ころ)
 イギリスの鉄道事務官。1874年(明治7)来日。運輸長として雇用され、旅客・貨物運賃の設定、ダイヤの作成など運輸事務を担当。1899年退職。

ベックマン* Wilhelm Böckmann (1832―1902)
 ドイツの建築技師。1886年(明治19)来日、同年帰国。臨時建築局に雇用され、エンデとともに日比谷(ひびや)の官庁街の設計を担当。また同局の事業推進のため、れんがの近代的工場の必要性を説き、日本煉瓦(れんが)製造株式会社の設立に尽くした。

ペルス・ライケン G. C. C. Pels Rijcken (1810―1889)
 オランダの海軍軍人。1855年(安政2)武装商船スンビン号(のち観光丸)を率いて来日。同年開設の海軍伝習所教官を務め、西洋式海軍の基礎を築き、1857年、第二次オランダ海軍伝習派遣隊の到着に伴い帰国。

ベルタン Louis Emile Bertin (1840―1924)
 フランスの海軍技師。1886年(明治19)海軍省顧問として来日。巡洋艦「厳島(いつくしま)」「橋立」「松島」を設計。また桜井省三(1854―?)らの技術者を養成、佐世保(させぼ)、呉(くれ)の造船所建設を提案した。1890年帰国。

ベルツ* Erwin von Bälz (1849―1913)
 ドイツの内科医。1876年(明治9)東京医学校教師として来日。内科学、産婦人科学を教え、臨床研究を行った。研究はツツガムシ病などの寄生虫、脚気(かっけ)など広範囲に及び、また教科書を出版し、明治の日本医学の水準を高めた。1905年帰国。

ベルニー* François Léonce Verny (1837―1908)
 フランスの造船技師。1865年(慶応1)横須賀製鉄所(1871年に横須賀造船所と改称)建設および運営指導者として来日。いったん帰国し、1866年再来日、1875年(明治8)まで横須賀造船所首長を務めた。灯台、船渠(せんきょ)(ドック)の建設、技術者養成機関の整備に尽くし、自ら軍艦の設計に携わった。1876年帰国。

ボアソナード* Gustave Emile Boissonade de Fontarabie (1825―1910)
 フランスの法学者。1873年(明治6)来日。司法省法学校で自然法理論、フランス式民法・刑法を講義。旧刑法、治罪法、旧民法を起草。日本の自然法理論、フランス法学の基礎を築いた。1895年帰国。

ホイットマン* Charles Otis Whitman (1842―1910)
 アメリカの動物学者。1879年(明治12)東京大学理学部動物学教師モースの後任として来日。ドイツ式教育法の徹底、顕微鏡などを取り入れた新しい研究方法で教えた。1881年解任後、ミルウォーキー臨湖実験所、シカゴ大学で研究・教育にあたった。

ホイーラー William Wheeler (1851―1932)
 アメリカの土木技術者。1876年(明治9)札幌農学校教師として来日。土木工学、数学、英語を講義。1877年クラークの後を継ぎ教頭心得を務めた。北海道の土木事業にも貢献。1879年帰国。

ボイル Richard Vicars Boyle (1822―1908)
 イギリスの鉄道技師。1872年(明治5)来日。建築師長として関西の鉄道建設に従事。1877年解任、帰国。

ボードイン* Anthonius F. Bauduin (1822―1885)
 オランダの軍医。眼科学に詳しく、1862年(文久2)来日。ポンペの後を継いで長崎の医学所や精得館で教えるかたわら眼病患者の治療にあたった。1866年(慶応2)帰国。1869年再来日。大阪府仮病院に勤務。1870年(明治3)帰国の途次、東京に立ち寄った際に、政府の依頼で大学東校でしばらく講義を受け持った。同年帰国。

ホフマン Theodor Eduard Hoffmann (1837―1894)
 ドイツの軍医。1871年(明治4)大学東校の医学教師として来日。内科学を担当。ミュラーとともに東校の医学教育制度を改革、ドイツ式の大学の形態とした。日本に初めて穿胸(せんきょう)術、肋骨(ろっこつ)切除術を伝え、また脚気(かっけ)の研究を行った。1875年帰国。

ホルト N. W. Holt (1836ころ―?)
 アメリカの建築技師。1872年(明治5)開拓使器械運転頭取として来日。建築の骨格を規格化した部材で建てるバルーン・フレーム構造を用い、蒸気木挽(こびき)機械所、水車機械所を建設。1876年帰国。

ポンペ* Johannes L. C. Pompe van Meerdervoort (1829―1908)
 オランダの軍医。1857年(安政4)海軍伝習所教官として来日。在日5年間にその指導を受けた者は松本良順(まつもとりょうじゅん)のほか133名に及び、その後の日本医学界の指導者となった人々が数多く輩出した。病院の設立を幕府に進言し、1861年(文久1)長崎養生所を開設し、身分・貧富にかかわらず治療を行った。1862年帰国。

マンスフェルト* Constant G. van Mansvelt (1832―1912)
 オランダの軍医。1866年(慶応2)長崎の精得館教師ボードインの後任として来日した。明治維新後、熊本医学校へ招かれた。いったん帰国し、再来日、京都府療病院、大阪医学校で教鞭(きょうべん)をとる。1879年(明治12)帰国。

ミュラー* Benjamin Carl Leopold Müller (1824―1893)
 ドイツの軍医。1871年(明治4)東校の医学教師として来日。まず東校の医学教育のあり方を抜本的に改革し、予科と本科のドイツ式の大学制度に改め、とくに予科教育に重点を置いた。ミュラーは本科生の解剖学、外科学、婦人科学、眼科学の講義を担当した。1875年帰国。

ミルン* John Milne (1850―1913)
 イギリスの地震学者。1876年(明治9)工学寮工学校(後の工部大学校)教師として来日。鉱山学・地質学の講義のかたわら火山の地質および地震研究を行い、1880年、日本地震学会を設立。1895年帰国。

メーソン* Luther Whiting Mason (1818―1896)
 アメリカの音楽教育家。初等音楽教育の第一人者。1880年(明治13)音楽取調掛教師として来日。日本初の音楽教科書『小学唱歌集』の編集、音楽教師の養成、オルガンやバイオリンなどの洋楽器の紹介など洋楽教育に貢献。1882年帰国。

メーソン William Benjamin Mason (1853―1923)
 イギリスの電信技師。1874年(明治7)電信寮電機取扱方として来日。長崎電信分局のオペレーターを務め、1885年モールス電信符号を改良。工部省の廃止に伴い逓信(ていしん)省の東京電信学校で教鞭(きょうべん)をとった。横浜で死去。

メッケル* Klemens Wilhelm Jakob Meckel (1842―1906)
 ドイツの軍人。1885年(明治18)陸軍参謀本部顧問、陸軍大学校教師として来日。1886年に設置の臨時陸軍制度審議会で児玉源太郎(こだまげんたろう)らを助けて、日本陸軍をプロシア式兵制を範に改革強化。1888年帰国。

メンデンホール* Thomas Corwin Mendenhall (1841―1924)
 アメリカの物理学者。1878年(明治11)東京大学物理学教師として来日。地球物理学を専門とし、東京および富士山頂で重力を測定。東京大学理学部観象台の観測主任を務めるなど日本の地球物理学の基礎を築き、田中館愛橘(たなかだてあいきつ)、藤沢利喜太郎、田中正平らを指導。1881年帰国。

モース* Edward Sylvester Morse (1838―1925)
 アメリカの動物学者、日本研究家。1877年(明治10)腕足類研究のため来日、東京大学で動物学や生理学を講義。ダーウィンの進化論を紹介し、また大森貝塚を発見するなど考古学や人類学にも貢献。1878年、日本動物学会の前身東京大学生物学会の創設に尽くし、また日本の陶器、民族、建築などを研究。1879年帰国。

モルレー* David Murray (1830―1905)
 アメリカの教育家。1873年(明治6)文部省学校督務として来日。同年発布の学制実施に携わり、1875年、全国の教育事情の視察報告書「モルレー申報」で漸進的教育改革を提唱した。また女子教育の振興、博物館の創設や学士院の設置などを進言。1879年帰国。

モレル* Edmund Morel (1840―1871)
 イギリスの土木技師。1870年(明治3)初代鉄道兼電信建築師長として来日。長崎海軍伝習所で教えを受けた小野友五郎らの土木司を指導、新橋―横浜間の鉄道建設に貢献。日本で死去。

ユーイング* James Alfred Ewing (1855―1935)
 イギリスの地震学者、物理学者。イギリスの物理学者ケルビンが大西洋海底電線を敷設した際の技師。1878年(明治11)東京大学機械工学教師として来日。機械工学のほかに力学、電気学、磁気学などを講義。1883年帰国。

ライマン* Benjamin Smith Lyman (1835―1920)
 アメリカの地質技師。1872年(明治5)地質測量鉱山士長として来日。北海道の石炭などの有用鉱物調査を行い、北海道の地質図を作成。1876年以降、工部省に移り、新潟、静岡などの油田調査を行うなど近代的資源調査法をもたらした。1881年帰国。

ラウダー John F. Lowder (1843―1902)
 イギリスの法律家。1861年(文久1)来日。領事館職員を務め、1872年(明治5)大蔵省法律顧問となり、横浜税関で税関諸規則の改正などの事務指導のかたわら、諸省の法律顧問として活躍。日本で死去。

ラグーザ* Vincenzo Ragusa (1841―1927)
 イタリアの彫刻家。1876年(明治9)工部美術学校彫刻学科教師として来日。日本に西洋彫刻技術を伝え、また美術解剖学の重要性を強調した。在日中、漆器技術に関心をもち、1882年帰国後、パレルモの工芸学校に漆工科を設置。夫人玉(たま)(1861―1939)をモデルにした彫刻が著名。

リース* Ludwig Riess (1861―1928)
 ドイツの歴史学者。1887年(明治20)帝国大学文科大学史学教師として来日。歴史学を講義するかたわら、国史科の設置、史学会の設立、史料の編集など日本史の歴史研究の基礎を築き、1902年(明治35)帰国。著書に『日本雑記』などがある。

リーランド George Adams Leland (1850―1924)
 アメリカの教育家。1878年(明治11)体操伝習所教師として来日。師範学校で体育論を講じ、手具体操を指導、彼の紹介したアマースト大学式柔軟体操は坪井玄道(つぼいかねみち)により全国の学校に広められた。1881年帰国。

ルムシュッテル Hermann Rumschöttel (1844―1918)
 ドイツの鉄道技師。1887年(明治20)九州鉄道の顧問技師として雇用され、九州地方の鉄道建設およびその経営指導にあたり、1892年辞職。東京の駐日ドイツ公使館つき技術顧問を務め、1894年帰国。

レーマン Rudolf Lehmann (1842―1914)
 ドイツの造船・工作機械技師。1869年(明治2)来日。1870年以降、京都欧学舎、東京外国語学校、東京大学予備門(後の第一高等中学校)でドイツ語教育に従事。日本初の独和辞典の編集、梅津製紙場の建築に携わり、1890年官職を辞し、ドイツ機械輸入商ラマペ商会で日独貿易に貢献。東京で死去。

ロエスレル* Hermann Rösler (1834―1894)
 ドイツの法律家。1878年(明治11)外務省法律顧問として来日。井上毅(いのうえこわし)を助け帝国憲法の基本方針について多くの意見を述べ、商法草案の作成にもあたった。1893年帰国。

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