富田知信(読み)とみた・とものぶ

朝日日本歴史人物事典 「富田知信」の解説

富田知信

没年:慶長4.10.28(1599.12.15)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将通称は平右衛門。名は知信,信広,長家と何度か変えているが,一白の名で知られている。ただし一白が号なのかどうかは不明で,号としてはほかに水西がある。はじめ織田信長,本能寺の変ののち豊臣秀吉に仕え,天正12(1584)年の小牧長久手の戦では伊勢神戸城の防衛に当たり,また織田信雄との講和交渉において奔走,この功によって秀吉から名馬星崎を与えられた。戦闘よりも外交面で手腕を発揮し,秀吉もその能力を高く買っていたらしい。天正16年には,奥州の伊達政宗に対し上洛を催促したりしており,秀吉の調略担当参謀としての色彩が濃厚であった。同18年,山城・近江美濃で合わせて2万石余を与えられ,のち,伊勢において加増をうけ,最終的には文禄4(1595)年,伊勢安濃津城主6万石(一説に5万石)となり,最後は秀吉のお咄衆だった。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富田知信」の解説

富田知信(1) とみた-とものぶ

?-1599 織豊時代の武将。
織田信長,豊臣秀吉につかえる。小牧・長久手(ながくて)の戦いで伊勢(いせ)(三重県)神戸(かんべ)城をまもり,秀吉と織田信雄(のぶお)との和睦交渉でも活躍。文禄(ぶんろく)4年伊勢安濃津(あのつ)に5万石をあたえられた。晩年は秀吉のお咄(とぎ)衆。慶長4年10月28日死去。近江(おうみ)(滋賀県)出身。別名に信広(のぶひろ),長家。通称は平右衛門。号は一白,水西。

富田知信(2) とみた-とものぶ

富田信高(とみた-のぶたか)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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