20世紀日本人名事典 「寺田勇吉」の解説 寺田 勇吉テラダ ユウキチ 明治・大正期の教育家 東京高商校長。 生年嘉永6年6月(1853年) 没年大正10(1921)年10月11日 出生地江戸 経歴明治3年大学南校(のちの開成学校)に入り、鉱山学を修める。鉱山局などを経て、11年太政官に出仕。のち文部省御用掛に転じ、東京大学予備門教諭、第一高等学校教諭。22年欧米の教育制度を視察、帰国後第一高等学校教授兼文部省参事官となり、28年官房文書課長を兼ね統計主任。30年文部省書記官兼参事官に第一高等学校教授を兼務し、のち文部省視学官を経て、35年東京高等商業学校校長に就任。その後は精華学校を創立してその経営に専念した。明治20年代に学校における兵式体操を非難したことでも知られる。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺田勇吉」の解説 寺田勇吉 てらだ-ゆうきち 1853-1921 明治-大正時代の教育者。嘉永(かえい)6年6月12日生まれ。明治11年太政官にはいり,統計を研究。18年杉亨二の共立統計学校の創立にかかわる。文部省御用掛,東京外国語学校教諭,文部省参事官,視学官,東京高商校長などを歴任。44年東京九段に精華高女を創立した。大正10年10月11日死去。69歳。江戸出身。開成学校卒。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by