対華借款団(読み)たいかしゃっかんだん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「対華借款団」の意味・わかりやすい解説

対華借款団
たいかしゃっかんだん

数か国が共同して行った中国への借款。借款額が多い場合、数か国が共同して行うことが多かったが、それは、単に額が多くて一国だけでは負担しにくいという理由だけからではなかった。旧中国(この場合、19世紀後半から中華人民共和国成立以前までとする)に対する借款供与には、かならず担保として権益がついていたから、それは必然的に政治・経済上の侵略という性格を帯びざるをえなかったのである。したがって、ある特定の一国が巨額な借款を独占することは、その国の中国への進出が飛躍的に有利になることを意味した。これは残りの列強の望むところではなかった。そのため、ある一国の独走を防ぎ相互に牽制(けんせい)するために巨額な借款の場合はほとんど数か国が連合して行った(借款団の形成)。その代表的な例に清(しん)末の四国借款団がある。1910年5月、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの四国借款団が成立し、11年4月、清朝政府と幣制改革借款1000万ポンド、湖広鉄道借款600万ポンドが取り決められた。しかし、まもなく辛亥(しんがい)革命が起こり、これらの借款はほとんど実行されなかった。また、中華民国成立直後の13年、袁世凱(えんせいがい)政権の強化を目的にしてふたたび国際借款団がつくられた。これには前述の四か国にロシアと日本が加わり、初め六国借款団として出発した。しかし、アメリカが借款協定の内容に不満をもち途中で脱退したので、五国借款団となった。13年、五国借款団は袁世凱政権といわゆる「善後借款」を取り決め2500万ポンドという空前の大借款を同政権に供与した。その後、20年にふたたびイギリス、アメリカ、フランス、日本の四国借款団がつくられたので、これを新四国借款団とよんで前のものと区別している。第二次世界大戦後はアメリカの経済力が卓越したものになったので、アメリカ一国で多額の借款が行われた。また中華人民共和国成立後も外国借款は続行されており、初期はソ連一国によってなされた。その後も一か国の借款であり、複数の国による借款団はつくられていない。

[倉橋正直]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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