小山弥兵衛(読み)こやま・やへえ

朝日日本歴史人物事典 「小山弥兵衛」の解説

小山弥兵衛

没年天明8?(1788)
生年:宝永2(1705)
江戸中期の但馬国(兵庫県)生野代官所支配村々の一揆の指導者。磯部庄大内村(山東町)の年寄役。持高10石余。元文3(1738)年12月,租税の引き下げと夫食貸しを要求して約3000人が蜂起。商人宅打ちこわしののち,生野代官所へ強訴弥兵衛廻状を出させて人数を結集したことにより壱岐島(長崎県)へ遠島。弥兵衛の孫娘は,祖父を思慕し,旅行の便をはかるため尼となって心諒と改名。21歳のとき,ついに祖父を訪ね,相擁して号泣した。その後,福岡の寺に寓居し,毎月1回,3年間にわたって島に渡り,祖父を慰めた。<参考文献>『兵庫県史』4巻

(三宅紹宣)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小山弥兵衛」の解説

小山弥兵衛 こやま-やへえ

1705-1788? 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。
宝永2年生まれ。但馬(たじま)(兵庫県)磯部荘大内村の年寄。元文3年年貢減免と夫食(ふじき)(農民食糧)貸しをもとめて約3000人が幕府生野代官所を包囲した生野一揆のときの指導者のひとり。翌年肥前壱岐(いき)(長崎県)に流された。流刑地で天明8年?死去。84歳?

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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