改訂新版 世界大百科事典 「お蔭参り」の意味・わかりやすい解説
お蔭参り (おかげまいり)
江戸時代,数次にわたりみられた伊勢神宮への民衆の大量群参のこと。御影参りとも書く。1650年(慶安3),1705年(宝永2),71年(明和8),1830年(文政13・天保1)の4回が著名であるが,このほかにも1638年(寛永15),61年(寛文1),1718年(享保3),23年,30年,40年(元文5)などにも群参のあったことが知られている。
1650年3月中旬から5月まで箱根関所を通過した伊勢へ向かう民衆は1日2500人から2600人に及んだ(《寛明日記》)。この時は関東が中心で,お蔭参りとは呼ばれず,抜(ぬけ)参りと呼ばれていた。1705年4月9日から5月29日までの参宮人は362万人であった(《三方会合記録》)。宝永の時は子どもの参加者が多く,また地域も関東,中部,畿内と広くなり,参宮の道者への食物その他の施行(せぎよう)がみられ,さらに群参の契機としての神符の降下などの神異がみられるようになった。宝永では抜参りと呼ばれることが多かったが,施行・神異により神のお蔭で参宮ができるという意識が広まり,以後お蔭参りの語が一般化する。71年には宮川の渡しを4月8日から8月9日までに渡った人員は207万7450人とされる(《明和続後神異記》)。明和になると頭に笠,手に柄杓というお蔭参りの装束が一般化し,地域あるいは職業ごとに集団をなし,笠に印をつけたり幟を持つようになり,参宮する民衆の範囲も広くなった。宝永から明和までがほぼ60年にあたることから,1830年のお蔭参りはかねてから民衆の間に期待されていた。3月に阿波からおこった文政のお蔭参りは各地に急速に伝播した。閏3月から6月20日までに宮川の渡しを渡った人員は427万6500人であった(《文政神異記》)。この年には河内・大和など畿内一円では村ごとに衣装をととのえ踊るおかげ踊が流行した。この踊りは村から村へという掛踊の形式で伝播した。おかげ踊は67年(慶応3)の〈ええじゃないか〉のおりにもみられ,〈ええじゃないか〉の前提の一つであった。90年は1830年から61年目ということであったが,前回のような施行もなされなかったので自然に消滅した。
→ええじゃないか
執筆者:西垣 晴次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報