改訂新版 世界大百科事典 「宮廷音楽」の意味・わかりやすい解説
宮廷音楽 (きゅうていおんがく)
広義には宮廷で演奏される音楽の総称。狭義には,とくに宮廷において用いられるか,他の場所での使用が制限されており,しかも他の場所で使用されるものとは様式的にも異なる音楽をさす。この宮廷音楽の概念には,宮廷における文芸や宮廷演劇・舞踊が深くかかわっている。日本における舞楽,ヨーロッパのルネサンス,バロック期の宮廷舞踊は,こうした総合的な宮廷芸術の例である。以下,皇帝や国王だけのものでなく,その周囲の貴族の音楽をも含めて記述する。
宮廷音楽は,それぞれの宮廷の時代的・地域的特性によってさまざまに変化する。そうした雑多な種類を整理するため儀礼性と娯楽性,正統(正格)性と民俗性,自国文化と異国文化,正規な伝承と自由な伝承,洗練・豪華と素朴・単純の対概念に従って見ることにする。
宮廷音楽の中には,儀礼用と娯楽用の両方を別々な様式でもつものと,どちらか一方しかもたないものがある。日本における神楽(御神楽(みかぐら))は宮廷の宗教儀礼の音楽であり,一方,雅楽の管弦は娯楽用の宮廷音楽とみなされる。中国の雅楽は,広くは両者を含むが,狭義には天地宗廟のための儀礼用音楽をさし,これと対照的なものとして宮廷の饗宴のための音楽がある。西洋文化でも,時代によっては,キリスト教音楽が宮廷と強い関連をもっているが,バロック時代の教会,劇場,室内という場所による三つの様式区分が示すように,宮廷音楽としては娯楽性と結びついた室内楽が中心的になる。室内楽の〈室〉(たとえばフランス語のシャンブルchambre)も,もともとは,通常の住宅の一室ではなく,宮殿の中の部屋を示す言葉であった。なお,17世紀までは,オペラも宮廷の催しとして行われていたので,宮廷音楽としての性格が強い。
正統性と民俗性の観点からみると,東アジアはいうまでもなく,一般に宮廷音楽を正統性や正格性をもった制度化された音楽とみなす傾向が強いことがわかる。ある様式が宮廷音楽や宮廷舞踊として制定されるのは,君主の美的・政治的な欲求によるものであろうが,一度制定されれば,まわりも伝承者も,他の様式(たとえば民俗音楽)の場合よりも,様式や技術をそのまま保持する傾向が強い。しかし国によっては,宮廷音楽が民俗音楽を取り入れていく場合があることも指摘できる。ヨーロッパの例としては,16~18世紀の宮廷舞踊(音楽)がある。今日,その代表とみなされているパスピエpassepied(3/8,6/8拍子の速い陽気な舞曲),メヌエット,リゴードンrigaudon(2/4,4/4拍子の快活な舞曲)はもとはそれぞれブルターニュ,ポアトゥー,プロバンス各地方の民俗的な舞踊であった。日本の例としては,遊女から習った今様(いまよう)を廷臣に教えた後白河法皇の行為が挙げられる。また,19世紀中ごろのタイのラーマ4世は,禁止していた宮廷の舞踊,演劇,音楽の模倣を許可する一方,宮廷音楽家が地方の音楽家から技術を学ぶのを奨励したともいわれている。
正統性の意識は,宮廷音楽を自国の音楽で構成するとは限らなかった。むしろ,政治的観点からモデルとされる国家や宮廷の音楽を採用することが多かった。ルネサンスにおいて,ブルゴーニュやネーデルラントの音楽がドイツ語圏の宮廷で広く使われたり,ルイ王朝の音楽やイタリア・バロックの音楽が国を超えて使われたのは,音楽上のモデルというだけでなく,政治・文化のモデルとしての機能があったからである。音楽,舞踊を含めて宮廷人のあり方を記したB.カスティリオーネの《廷臣論》(1528)が英訳もされたことは,こうしたモデル意識をよく表している。他方,東洋に目を転じれば,東アジアでは,中国が〈モデル国家〉の役割を果たしてきたため,その音楽が日本と朝鮮の宮廷に入った。ベトナムの場合は,チャンパ王国ではインド系の音楽だったと思われているが,15世紀以降は,世俗音楽や劇音楽ではベトナム固有の性格が強められていく中で,宮廷音楽は中国音楽の性格をもっていた。
この異国音楽の利用のためには,しばしば音楽家を招いたり派遣したりすることが〈モデル国〉との間に行われた。日本の遣唐使による中国音楽の移入,あるいは,ルネサンス,バロックにおけるドイツ語圏からのイタリア,フランスへの留学は,このよい例といえよう。この制度は,ときには,その国に固有な趣味とは無関係に新しい音楽様式をもちこむ結果にもなる。日本の宮廷音楽家が明治時代にいち早く西洋音楽を導入したのも,またタイのラーマ5世がヨーロッパ音楽を取り入れたのも,同種の試みと考えられる。
宮廷音楽の正統性が,他の芸術とは異なる特別な伝承法で守られることもある。宮廷はパトロンとして優秀な音楽家を保護してきた。ときには世襲的な地位を与えることもあり,その例としては日本の雅楽を代々伝承してきた家,オート・ボルタの歴代の王の事績と系譜語り(太鼓奏者)などが認められている。また,教育制度によって水準を維持することは,中国や日本の宮廷音楽に古代から認められていることである。文字のある社会の場合は,他の芸術よりも宮廷音楽・舞踊の方が,記されたものを用いることが多いように思われる。歌詞や楽譜はいうまでもなく,舞踊譜も宮廷と結びついていることが多い。ヨーロッパの宮廷舞踊においては,ルイ14世宮廷の名人ボーシャンPierre Beauchamp(s)(1636-1705)によって1680年代から舞踊譜が使われ,フイエRaoul-Auger Feuillet(1675ころ-1710)が《コレオグラフィー(振付)あるいは舞踊を記述する技術》(1700)として公刊している。この〈モデル国〉フランスの宮廷舞踊譜は,多少形を変えて1705年にはライプチヒでドイツ語で公刊されており,このような記述されたものによる伝承法が,ドイツ人がフランスから学ぶことを助けたと考えられる。言葉による舞踊の分析的記述法は,日本の《掌中要録》(1263)のように古くからあり,これも,正統的な伝承を強めたと考えられよう。
こうして,宮廷音楽・舞踊は,同時代の他の芸術に比べると,都市の芸術として,洗練と豪華という特徴を備えて,自国のみならず他国の芸術にも,直接・間接に刺激を与えるという役割を果たしてきたのである。しかし,そのために素朴な人民が生産のための時間を犠牲にすることに反対する声は当然あり,その一例として墨子の〈非楽論〉を挙げることができる。
執筆者:徳丸 吉彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報