皇室領(読み)こうしつりょう

改訂新版 世界大百科事典 「皇室領」の意味・わかりやすい解説

皇室領 (こうしつりょう)

皇室の所領。令制以前からの古い伝統をもつ皇室の屯田(みた)・御厨(みくりや)・御薗(みその)などの多くは,令制以後は大炊(おおい)寮や内膳司など諸司の管理下に入り,さらに諸司領に変身して,皇室経済の一端をになったが,一方では平安初期に勅旨田勅旨牧の設定が盛行し,皇族らにも与えられた。そのうちとくに後院ごいん)(離宮の一種)にあてられたものは,殿第とともに〈代々のわたり物〉として天皇に伝領され,1036年(長元9)の渡文は4殿第・4荘牧を載せている。ついで院政が始まると,後院領は天皇・上皇を問わず,時の“治天の君”が管領し,ことに保元の乱(1156)後,没官領(もつかんりよう)42ヵ所を加えて急増した。また院政時代皇室領荘園が飛躍的に増大した時代である。寄進地系荘園の設立が本格化し,院政権力のもとに荘園の寄進が集中したためであるが,天皇・上皇・女院(によいん)等の御願寺建立の盛行がそれに拍車をかけ,御願寺領荘園として皇室の所領を拡大した。鳥羽上皇建立の安楽寿院領48ヵ所,後白河上皇建立の六条長講堂領90余ヵ所などは,その代表的なものである。また一条天皇の母后東三条院に始まる女院も,院政時代以降急激に増加したが,とくに皇女の女院に皇室領が伝領される例が続いた。鳥羽上皇の皇女八条院が安楽寿院領その他を伝領し,後白河上皇の皇女宣陽門院が長講堂領を伝領したのはその顕著な例で,さらに持明院・大覚寺両皇統の分立後は,それらの伝領をめぐって両者の対立が深まった。一方,院政時代以降院宮分国も急速に増大し,鎌倉時代に入ると天皇・上皇をはじめ皇后・女院等にも分国があてられるのが常態となり,さらに播磨国が持明院統に,讃岐国が大覚寺統に相伝されたごとく,分国が伝領の対象となって,その国衙領の荘園化をいちだんと進めた。しかし南北朝時代以降の政治・経済体制の大きな転換のなかで,皇室領荘園も院宮分国もしだいに消滅していった。
執筆者: 室町時代以後,禁裏御料と呼ばれたが,応仁の乱後の群雄割拠の動乱により土豪などの侵略と荘民の自立により急速に荘園制が解体するなかで,皇室領もまた多く失われた。織田信長は皇室領の回復や貢納の督促に努め,また御領の進献をし,豊臣秀吉も数度にわたって御領の進献を行っている。秀吉時代にも貢納のことが明らかな従来からの皇室領には,山城では灰方郷,山科郷,十一ヶ郷,二ノ瀬,それに丹波山国荘,出雲横田荘,備前鳥取荘,石見大森銀山があったが,秀吉時代末期の全御領地の所在地・草高・貢納高などは明確でない。《吹塵録》所載の〈禁裏御料沿革記〉には7000石と記載されている。江戸時代の禁裏御料(領)はおよそ3万石といわれるが,これは1705年(宝永2)以降のことで,前後3回にわたって江戸幕府より増進され3万石に及んだのである。1601年(慶長6)に徳川家康により進献された山城国内5郡44ヵ村,つごう1万0015石余を〈本御料〉,23年(元和9)秀忠により進献された宇治田原郷等5ヵ村内,つごう1万石を〈新御領〉,1705年綱吉により進献された山城国内45ヵ村・丹波国桑田郡内7ヵ村内,つごう1万石弱を〈増御料〉という。そして06年以後に山城和束郷の田村新田98石余が増加したから,3御料と合わせ総計3万0113石余が幕末までの草高であった。皇室の御料にはほかに仙洞・女院・東宮などの御料があったが,これらは継承御領である禁裏御料とは異なり,その在世・在位中に限って幕府から献進されたもので,例えば上皇が死去すればその仙洞御料は〈御除領〉となるというぐあいであった。なお,これらの御料のすべてを幕府が管理し,京都代官が差配した。
皇室財産
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「皇室領」の意味・わかりやすい解説

皇室領
こうしつりょう

皇室、宮廷の私的経済の収入源となる不動産および動産の総体を称し、とくに戦国期以降には禁裏御料(きんりごりょう)と称されることが多い。文献上の初見としては天狭田(あまのさなだ)、長田(ながた)があるが、具体的には県(あがた)、屯倉(みやけ)、御子代(みこしろ)、御名代(みなしろ)が皇室領の原初形態といえ、これらは大化改新(645)による公地公民制のもとに解体したが、全国に散在していた県は大和(やまと)国(奈良県)の6か所の県(六県(ろくあがた))に集約された。さらに大宝(たいほう)の制(701)で官田、園池(そのいけ)、厨(くりや)、氷室(ひむろ)、薬園、牛牧、御封(みふ)の成立をみた。しかし律令(りつりょう)制が弛緩(しかん)し墾田増加して荘園(しょうえん)化が進むと、皇室もまた勅旨をもって諸国の空閑地などを開墾するようになる。勅旨田(ちょくしでん)がこれである。また、嵯峨(さが)天皇のとき初めて後院(ごいん)(天皇の在位中に定められた譲位後の居所)の経費にあてるための後院領の設置をみた。荘園の発達に伴い藤原氏は諸国の諸荘園を兼併し、その勢い皇室をしのぐに至る。ここに後三条(ごさんじょう)天皇は記録荘園券契所を設けて荘園の整理を行い、藤原氏の勢力を抑えるとともに、皇室領の増大を図り、白河(しらかわ)、鳥羽(とば)、後白河(ごしらかわ)の三上皇の院政時代には皇室領は画期的な増加をみた。これらには社寺領、女院領の形態をとるものが多く、神社では後白河法皇の創建にかかる新日吉(いまひえ)社、新熊野社の社領、寺院では法勝(ほっしょう)寺以下の六勝寺の所領や長講堂領、女院領では八条院、七条院、室町院らの所領がそれである。長講堂は後白河法皇の御所六条殿の持仏堂で、その所領は180か所にも及び、中世を通じて皇室経済の根本となり、両統迭立(てつりつ)の原動力とさえなった。皇統が二分されると皇室領も分割され、持明院(じみょういん)統は長講堂領を中枢とし、後深草(ごふかくさ)上皇領、法金剛院領、室町院領半分など約250か所を、大覚寺(だいかくじ)統は七条院領、八条院領、室町院領半分などの約380か所を伝領したが、南北朝の動乱期に入ると皇室領は地方豪族のために押領(おうりょう)され、壊滅的な打撃を受けた。そして時代とともにこの傾向は深刻なものとなり、戦国期を通して残存したものは多くはない。この期に諸司領、供御人(くごにん)、率分所(そつぶんしょ)などが新設され重要性を帯びたのも、これがためであった。織田・豊臣(とよとみ)時代に入って、両氏より御領の進献もあり、ようやく経済的に安定の兆しをみた。江戸期に入ると前後3回にわたり徳川氏より御領が進献され、つごう3万石を領することになる。1601年(慶長6)徳川家康より進献された1万石余の土地を本御料、23年(元和9)秀忠(ひでただ)よりの1万石を新御料、1705年(宝永2)綱吉(つなよし)よりの1万石を増(まし)御料というのである。また上皇・女院などにも別に御料が進献され、これら御料所の事務などは幕府の京都代官が扱った。1867年(慶応3)徳川慶喜(よしのぶ)は改めて山城(やましろ)一国23万石を献じたが、王政復古により皇室領は国費でまかなうことになった。

[橋本政宣]

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百科事典マイペディア 「皇室領」の意味・わかりやすい解説

皇室領【こうしつりょう】

皇室の所有地の総称。古代の大和朝廷支配下では屯倉(みやけ)などと称し,律令制下では官田御厨(みくりや),,園池(えんち)などが設けられ,院政時代には膨大な荘園国衙(こくが)領が所有下に置かれた。南北朝〜戦国時代には地方武士の強奪で減少したが,織豊政権下に旧領の一部復活や御領の新設が行われた。江戸時代には禁裏(きんり)10万石と称されたが大半は幕府が収納して朝廷に必要経費として献じたもので,御料地(禁裏御料)は3万石と定められていた。明治維新直後は官有地と皇室領(皇室財産に含まれる)の別は不分明だったが,1876年以後官有地を無償で皇室領に編入,1890年ころには360万haに達し,その大半は森林(御料林)であった。第2次大戦後すべて国有財産となった。
→関連項目大庭御野神崎荘吹田千葉荘初倉荘矢野荘山科横田荘

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「皇室領」の意味・わかりやすい解説

皇室領
こうしつりょう

皇室の土地財産。文献上の初見は天狭田,長田である。大和朝廷の直轄領である屯倉 (みやけ) の数は 60以上に達したが,その他,県 (あがた) ,御子代,御名代があった。大化改新の際公地公民の制によって皇室領と称するものは減少した。律令制下では官田,園池,御厨 (みくりや) などがおかれ,のち勅旨田が設定された。その後律令制の動揺と荘園制の発展に伴い,藤原氏の荘園が皇室領をしのぐほどになると,後三条天皇は荘園整理令を発して皇室領の増加に努めている。院政時代には積極的な整理増殖や寺社領からの寄進などもあって,皇室領荘園は数百に達した。鎌倉時代に入り,武家政権の確立に伴って皇室領は減少し,江戸幕府はわずか3万石余を禁裏御料所にあてたにすぎなかった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「皇室領」の解説

皇室領
こうしつりょう

皇室の所領。律令制以前には屯田(みた)(御田)などがあり,律令制施行後にも勅旨田などが設定された。院政期に入ると後院(ごいん)領のほか,長講堂領などの御願寺領,八条院領などの女院(にょいん)領,神社領などのかたちでの荘園,院宮分国など,膨大な皇室領が形成された。南北朝の争乱のなかで南朝方の所領は消滅し,北朝方の所領も応仁の乱以降の群雄割拠,荘園制の解体のなかでしだいに失われた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は禁裏御料として皇室領の回復・進上を行い,江戸時代には約3万石となった。幕末期には徳川慶喜(よしのぶ)が山城国一国を献じたが,明治維新以降は皇室費は国費から支出されるとともに,皇室財産が設定されて皇室経済を支えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「皇室領」の解説

皇室領
こうしつりょう

明治時代以前の皇室の直轄地
畿内に多く分布し,時代により名称を異にする。大化以前の屯倉 (みやけ) ・屯田 (みた) ,律令制度下の官田,平安時代の勅旨田がこれにあたる。国衙 (こくが) 領や荘園にもあった。織田信長・豊臣秀吉は御領を献上。江戸幕府は5代将軍徳川綱吉までに合計約3万石を,慶喜 (よしのぶ) に至って山城国23万石を献上した。明治維新で廃止。

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世界大百科事典(旧版)内の皇室領の言及

【御厨】より

…例えば大江御厨が,河内国の〈国中池河津等〉を御厨領とし,ここで漁業上の優先権をもつ漁民の集団をその実態としていたように,この時点での御厨の実態は,一定の領域内の水面での活動に関する特権をもつ贄人集団を指すものであった。以上は皇室領の御厨についての事実であるが,神社領の御厨についても事情は同じであった。例えば下鴨社(賀茂御祖(かもみおや)神社)に属する網人たちは,櫓棹の通う道,浜はすべて鴨社の供祭(くさい)所として漁業活動を保障する特権を与えられ,摂津国長渚(ながす)(長洲御厨),近江国堅田を拠点として活動しており,皇室に所属する贄人とまったく同質の活動特権をもっていたことがわかる。…

※「皇室領」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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