朝日日本歴史人物事典 「小笠原只八」の解説
小笠原只八
生年:文政12(1829)
幕末の土佐(高知)藩士。高知城下大川筋の生まれ。諱は茂卿,茂敬。晩年に牧野群馬と改名。文久1(1861)年前藩主山内容堂(豊信)の扈従となり江戸勤務。2年江戸・梅屋敷事件の善後処置に奔走,抜擢され側物頭役,大監察兼軍備用役に昇任,容堂の上洛に随従し公武周旋に当たる。帰藩後,元治1(1864)年に武市瑞山助命嘆願で野根山に屯集した清岡道之助ら23士を処刑した。慶応2(1866)年,容堂の命で土薩融和の使者として後藤象二郎と鹿児島に赴き島津久光と会見,3年5月,乾(板垣)退助,中岡慎太郎らが進めた薩土討幕密約に関与,いったん解任されたが大監察に復職,4年1月,鳥羽・伏見の戦を契機に藩論は討幕に転じ,只八は藩兵を率いて上京,三条実美の抜擢をうけ大総督府御用掛。江戸の彰義隊戦争,東北戦争に功あったが,会津攻城戦で奮闘中敵弾を受けて戦死。弟謙吉茂連もこの日の戦闘で戦死した。<参考文献>寺石正路『土佐偉人伝』
(福地惇)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報